先日の埼玉スタ遠征のついでに吉見町あたりをぶらぶら。吉見町は蒲殿こと源範頼さんに所縁の地。蒲殿は兄・頼朝公の代官として木曽義仲、平家追討の大将軍という大任をはたした人物。人気、知名度とも弟の九郎義経殿には及ばぬが、鎌倉武士の主力軍を率いて西国、九州を平定したんじゃから、けっして凡庸な人物ではなかったはずじゃ。
源範頼と吉見御所
蒲殿は遠江国蒲御厨で生まれ育ち、蒲冠者、蒲殿と呼ばれた。源義朝殿の六男で母は池田宿の遊女。平治の乱の後、どのような経緯だったのかは定かではないが、藤原範季に養育され、その一字をとって範頼と名乗ったと伝わっている。
いっぽうで吉見町には、平治の乱のあと、蒲殿は比企尼の尽力により、この地に匿われたという伝承がある。そして寿永2年(1183年)2月には、常陸国の志田義広が三万余騎を率いて鎌倉に進軍した際、下野国の小山氏がこれを迎撃した野木宮合戦で、蒲殿は援軍としてかけつけていることが『吾妻鏡』に記されている。
のちに蒲殿は安楽寺に所領の半分を寄進し、三重塔、大講堂を建立したといわれている。そして安楽寺のほど近く、現在、息障院光明寺が立っている場所には、蒲殿の館があったとされ、そのため、このあたりの地名は「吉見御所」と呼ばれているんじゃ。
こちらは県指定史跡、息障院・伝源範頼館跡。ぐるりと周りをあるいてみたんじゃが、いちおう、周りに堀らしきものはあった。幼稚園が近くにあり、先生と園児たちに「こんにちは〜」と声をかけられて、ちょっとどぎまぎしたけどな。
なお、蒲殿はのちに、兄の頼朝公からつまらぬことで謀反の嫌疑をかけられ、伊豆に配流となり、やがて暗殺されている。
石戸蒲桜
九郎殿のように大陸に渡ってチンギスハンになったというのに比べるといささか地味じゃが、蒲殿にも各地に生存説があるようじゃ。この吉見町からほどちかく、埼玉県北本市にある東光寺の境内には、樹齢800年以上の桜の木があるんじゃが、こちらにも蒲殿に関する逸話が伝わっている。
なんでも伊豆を逃れ、石戸宿’(北本市)にやっとの思いでたどり着いた蒲殿が杖がわりについてきた桜の木の枝が、やがてその地に根付き、日本五大桜のひとつで天然記念物の「石戸蒲桜」となったという伝説が残されている。
今回は訪問できんかったが、春になったら、ぜひ行ってみたいね。
ということで、桜の木の下にいまなお眠ると言われる蒲殿。その後、次男の範円、三男の源昭は外祖父の比企尼の懇願により命を長らえ、この吉見庄を分与されてる。そして子孫は御家人として存続し、吉見氏を称するが、やがて謀反の疑いで北条氏に滅ぼされ、吉見氏嫡流は途絶えてしまう。
ただ、庶流は武蔵、能登、石見に存続し、中でも石見吉見氏は、後醍醐天皇の挙兵に呼応し、その後、足利尊氏に味方して南北朝の動乱を戦っているそうじゃ。