天皇陛下の「生前退位」報道でにわかに脚光をあびたのが第120代光格天皇。文化14年(1817)に仁孝天皇に譲位して以降、天皇の生前退位はおこなわれていない。けっして有名な天皇ではないが、幕末の尊皇思想に大きな影響を与えた天皇と言われておる。
光格天皇は閑院宮典仁親王(慶光天皇)の第六皇子として生まれた。もともとは、聖護院に出家する予定であったが、後桃園天皇が崩御したときに、先帝唯一の遺児・欣子内親王を中宮に迎えるのにぴったりなお年頃ということで践祚、安永9年(1780)に即位した。現在の天皇家の皇統はここから続いており、光格天皇は明治天皇の曾祖父、ひいおじいちゃんにあたる。
天明の飢饉と御所千度参り
光格天皇といえば、御所千度参りじゃな。天明の飢饉では、東北地方を中心に深刻な被害を与え、全国で2万人もの人が餓死したといわれておる。おまけに疫病も流行し農村の疲弊は甚だしく農民は都市部に流入。江戸や大坂を皮切りに全国で打ちこわしが多発した。京都もまた例外ではなく、飢えた人々は助けを求めて御所に殺到、その数は最大7万人にも達したといわれておる。
御所を囲む築地塀の周囲をぐるぐる廻り、南門で拝礼して祈願する民衆たち。後桜町上皇は3万個のリンゴを配り、有栖川宮や一条家、九条家、鷹司家もお茶や握り飯が配り救済に乗り出したが焼け石に水。この事態を憂慮した光格天皇は、幕府に民衆救済を求めることにした。じゃが、こうした政治介入は禁中並公家諸法度への違反行為であり、側近たちは、どんな厳罰が下るかと憂慮したという。
幸いにも当時の幕閣はこれを緊急事態として不問にふし、米1,500俵を京都市民に提供することになるが、ここから朝廷の幕政への関与は少しずつ強まっていったといわれている。ちなみにこのとき、光格天皇はこのとき16歳。その英明さにはびっくりじゃな。
尊一号事件で幕閣とやりあった気概
光格天皇という人は気概の人でもあったようじゃ。光格天皇は後桃園天皇の養子となり即位したが、父・閑院宮典仁親王が自分の臣下である摂関家より位が低いことを気にして、太上天皇(譲位した後の天皇)の尊号を贈ろうと考え、幕府と一悶着おこしている。
当時の幕閣の中心人物は寛政の改革で有名な松平定信で博学な人物。「天皇にもなっていない人に皇号を贈るのはおかしい」「君臣の名分を私情によって動かすべきでない」と拒絶する。じゃが、光格天皇はあきらめない。先例を調べて「後高倉院(守貞親王)、後崇高院(伏見宮貞成親王)の例もあるではないか」と反駁する。
いっぽうの松平定信も朱子学の大家。「それは承久の乱と正平一統(南北朝争乱)の非常時であって、太平の時代にあてはめるべきではない」と一蹴する。最終的にこの一件は典仁親王に1000石を加増することで妥結したが、幕府の祖法である法度を逸脱する要求をするなど、この当時としては考えられないこと。光格天皇のこの行動は庶民の間にも風聞として伝わり、のちの尊皇思想へとつながっていったといわれておるんじゃよ。
ちなみに、典仁親王は明治天皇の高祖父、ひいひいおじいさんにあたることから、明治17年、慶光天皇(慶光院)の諡号と太上天皇の称号が贈られている。光格天皇の勝利というわけじゃな。
文化14年(1817)、光格天皇は仁孝天皇に生前退位(譲位)。歴史上、現在までで最後の太上天皇となる。作詩や音楽も嗜んだというから、余生は気ままで悠々自適な生活を送ったのじゃろう。
天保11年(1840)崩御、宝算69歳。民衆思いで博学多才だった光格天皇は、近代皇室の礎をつくりあげた英主ともいえる天皇だったんじゃが、残念ながら教科書で教わることはほとんどない。
今回の天皇陛下の「生前退位」報道で、はからずも脚光をあびる存在になったが、現在の皇統にはこうした英主の血が流れているんだななどと、妙に関心した次第である。
おっと、伊豆の在庁官人の子孫ふぜいが不遜な物言い、ご容赦くだされ。