平成29年、2017年は干支の組み合わせでいうと「丁酉(ひのととり)」。ということで、昨年同様、酉年生まれの歴史人物を調べてみたぞ。
酉年生まれの戦国武将
まずは酉年の戦国武将ということで、この人、豊臣秀吉。じつは昨年のブログで、秀吉は天文5年(1536)1月1日、つまり申年生まれとして紹介した。じゃが、これは「太閤記」など後世の創作によるもの。サルと呼ばれた秀吉が申年というのはじつによくできた話なんで、昨年はそう書いたが、信頼できる資料では天文6年2月6日となっておる。ということで秀吉は酉年ということで決着。ちなみに、秀吉の母ちゃんの大政所も永正10年(1513)の酉年だそうじゃよ。
天文5年生まれの秀吉の同級生としては、室町幕府最後の将軍・足利義昭がおる。個人的に足利義昭にはシンパシーを感じるんじゃが、それはまた後日書くとして、そのほかには槍の又左こと加賀百万石の祖・前田利家(天文5年、7年説あり)、秀吉の水攻めで切腹させられた清水宗治、薩摩チート四兄弟の三男・島津歳久、小田原北条氏の外交僧・板部岡江雪斎がいる。
こうしてみると、なかなかのメンツじゃな。
賤ヶ岳の七本槍のひとり、福島正則も永禄4年(1561)生まれの酉年じゃ。「真田丸」では石田三成に「バカと話すと疲れる」といわれていたが、生一本の猪武者だったんじゃろう。じゃが、この男、関ヶ原で徳川が勝ったらどうなるのか、ほんとうに想像しなかったんじゃろうか?
幕府の命で名古屋城の普請に従事したときには、「江戸や駿府はまだしも、ここは妾の子の城ではないか。ここまでコキ使われるうようではかなわない」とこぼし、加藤清正から「そんなに嫌なら国元に帰って謀反の支度をしろ」とたしなめられたとか。
正則は関ヶ原後、安芸広島と備後鞆49万8000石を得るものの、けっきょくは改易されてしまう。じつに不運な武将である。
永禄4年(1561)酉年生まれ、福島正則の同級生には彦根藩祖・井伊直政がおる。徳川最強の「井伊の赤備え」を率いて戦場を駆け、徳川四天王とひとりとして数々の武功をあげた猛将じゃったが、関ケ原の合戦では島津豊久の「捨て奸」戦法で深手を負い、それがもとで亡くなっている。
「容顔美麗にして心優にやさしければ、家康卿親しく寵愛し給い」との記録があり、じつに「いい男」だったらしいぞ。大河ドラマ「おんな城主 井伊直虎」にも当然出てくるし、今年、注目の歴史人物であることはまちがいないじゃろう。
なお、永禄4年の酉年生まれはほかに、関ケ原で徳川に内通し、毛利軍を動かさなかった吉川広家、儒者の藤原惺窩などがおるぞ。
片倉小十郎景綱の子、片倉重長も天正12年(1585)生まれの酉年。片倉重長は主君・伊達政宗とともに大坂の陣に出陣。後藤基次を討ち取るなどの功績を立て「鬼の小十郎」と称された猛者じゃ。
大坂落城のとき、真田信繁の娘・阿梅を仙台に連れ帰り、のちに継室にしている。おかげで真田信繁の血脈はいまに残るわけじゃが、これは重長の武者ぶりに感じ入った信繁が娘を託したという説と単に乱取りして連れ去ったという説がある。阿梅はたいそうな美人だったらしいし、じっさいには乱取りされたとみるのが妥当じゃろう。
酉年生まれの幕末英傑
幕末の人物でいえが、日本最後の征夷大将軍・徳川慶喜が天保8年(1837)の酉年生まれじゃよ。
「家康の再来」ともいわれた聡明な将軍で大政奉還を実行した慶喜。鳥羽伏見戦後は恭順謹慎し、江戸を無血開城して明治維新の隠れた功労者という人もおるが、兵を戦地に置き去りにして自分だけ逃げ帰るあたり、「貴人に情無し」といった感は否めんな。
晩年は写真撮影や釣り、自転車、油絵、手芸などの趣味に興じて、ゆるゆると余生を謳歌した
ほかに天保8年(1837)の酉年生まれには倒幕派公家の三条実美、土佐藩士で陸軍軍人の谷干城、天誅組の変で挙兵した吉村寅太郎、実業家の大倉喜八郎、そして「板垣死すとも自由は死せず」の板垣退助がおる。
板垣退助は甲州勝沼では近藤勇率いる新撰組を粉砕し、日光では東照宮を兵火から守り、会津若松城を攻略するなど、戊辰戦争を通じて前線の最高司令官として活躍。もし長州出身だったら山県有朋にように軍人としてのしあがったじゃろう。じゃが、海軍は薩摩、陸軍は長州といわれた当時の風潮では、土佐出身の板垣は出る幕なし。参議として明治政府に出仕するも征韓論に敗れ、西郷隆盛らとともに下野している。
それでも板垣はめげない。刀槍ではなく弁論で世の中を動かそうと、自由民権運動に身を投じるのじゃ。薩長藩閥政府への恨み、反骨心もあったんじゃろうが、最終的にはお札(100円札)にもなっているんだから、たいしたものじゃよ。
徳川慶喜にとっては獅子身中の虫ともいえる岩倉具視も文政8年(1825)酉年生まれじゃ。よくいえば豪胆、悪く言えば姦物、いずれにしてもおよそ公家とは思えない大胆な男で、日本政府による初の国葬は岩倉具視じゃった。
岩倉は貧乏だったので屋敷を博徒に貸してテラ銭を稼いでいたという。そんなところから剛毅なキャラとハングリー精神が育まれたんじゃろう。はじめは公武合体を唱え、のちに王政復古を画策。孝明天皇毒殺の黒幕疑惑すらあるが、およそ新年早々の話題としてはそぐわないのでやめておこう。
明治〜戦前に活躍した酉年生まれの人たち
日本が近代国家として歩み始めた明治時代に活躍した酉年生まれの人物といえば、陸軍大将・乃木希典(嘉永2年:1849)じゃな。
日露戦争での旅順攻囲戦で多くの将兵を失ったことから、ともすれば無能呼ばわりされがちな乃木じゃが、ロシア兵に対する寛大な処置や水師営会見でのステッセリの処遇は世界的に賞賛されたという。
軍人として有能かどうかわしは知らんが、廉潔・有情に生きた乃木を明治天皇は愛し、昭和天皇の養育を託すべく学習院院長に指名する。ただ、明治天皇崩御の際に殉死したのは。ストイックすぎて、ちょっとついていけないけどな。
キリスト教指導者の内村鑑三も万延2年(1861)生まれの酉年じゃ。内村鑑三はもと高崎藩士で札幌農学校に学んだ後に渡米し、神学を学ぶ。帰国後の教員時代には教育勅語奉戴式で拝礼を拒んだことが不敬だと世論の非難にさらされた。足尾銅山鉱毒事件では、その被害を世間に訴え、日露戦争では非戦論を主張する。
じゃが、内村鑑三はけっして「パヨク」ではないぞ。内村鑑三が愛したのは「Jesus」(イエス・キリスト)と「Japan」という「二つのJ」。仏教が日本に根付いたように、日本に根ざした日本人の手による基督教を模索した彼の根底には、武士の矜持と日本への愛国心があったんじゃよ。このあたりは『代表的日本人』を読むとよくわかるので、一読をおすすめしたい。
『人間失格』『斜陽』の作家・太宰治も明治42年(1909)生まれの酉年。自殺未遂やら薬物中毒やら、なにかとお騒がせな太宰さん。さいごは玉川上水で愛人と入水自殺じゃからな。
暗い、ネガティブ、ナルシスト、元祖中2病……そんな印象の太宰の作品は、わしは苦手じゃよ。「生まれて、すみません」とかいわれてもねえ……
酉年生まれの実業家
つづいて実業家をみていくことにしよう。酉年の実業家といえば、まずは明治6年(1973)生まれの阪急東宝グループ創業者・小林一三じゃな。
「金がないから何もできなという人間は、金があっても 何もできない人間である」
阪急電鉄、阪急百貨店、宝塚歌劇団、東宝映画と多くの事業を手がけた日本を代表するアイデアマンの言葉は重みが違う。
そう、何事も熱意なんじゃ。さすが、松岡修造のひいおじいさんだけあるのう。
ソニー創業者の盛田昭夫も酉年、大正10年(1921)生まれじゃよ。井深大と東京通信工業を設立、技術畑出身じゃが営業の第一線としてトランジスタラジオやウォークマンを世界に売り込み、ソニーを世界に冠たるエレクトロニクス企業に育て上げたリーダーじゃ。
石原慎太郎との共著『「NO」と言える日本』はミリオンセラーになり、論客としてもその発言が注目される財界人じゃった。あのスティーブ・ジョブスも盛田昭夫とソニーから大いに学んだと語っている。それだけにソニーにはMade in Japanの世界的企業として、もっとがんばってほしいのう。
ソフトバンク総帥の孫正義も昭和32年の酉年生まれじゃよ。かつて「尊敬する経営者は?」との問いに多くに人が盛田昭夫や松下幸之助と答えたが、昨今ではこの人の名を上げる人も多いじゃろう。
孫さんは司馬遼太郎の『竜馬がゆく』にインスパイアされて、いまに至っているのだという。昨年末にはトランプ大統領と会談し、「マサは素晴らしい。感謝している」と賞賛されたとのニュースもとびこんできた。まあ、この件についてはいろんな意見があると思うが、いずれにせよマサの行動力はさすがである。これからも注目の経営者であることはまちがいないじゃろう。
酉年生まれのおんなたち
男ばかりというのもなんなんで、酉年生まれの女性も紹介しておこう。
まずは天正元年(1573年)の酉年、本多忠勝の娘で真田信之に嫁いだ小松姫が生まれている。「真田丸」では吉田羊さんが好演しておったな。
関ヶ原の戦い前夜、袂を分かった真田昌幸が信繁を連れて「孫の顔がみたい」と沼田城に立ち寄ろうとしたところ、小松姫は「義父とはいえいまは敵味方の間柄」と開門を拒む。これにはさすがの昌幸も「あれを見候へ。日本一の本多忠勝が女程あるぞ。弓取の妻は誰もかくこそ有べけれ」と感嘆したという。翌日、小松姫はこっそり孫をつれて昌幸に対面させ、九度山に流罪となった昌幸信繁父子にも自費で仕送りを続けている。かなりの女丈夫じゃな。
浅井長政とお市の方の三女・江姫がうまれたのもこの年じゃ。小谷城落城のときにはまだ乳飲み子。佐治一成とは離縁、豊臣秀勝とは死別した後、江戸幕府2代将軍徳川秀忠の室となる。幸運なのか悲運なのか、よくわからん人生じゃな。それはそれは嫉妬深い性格で秀忠は江姫にアタマがあがらなかったといわれておる。
秀勝と江姫との間に生まれた完子は、淀殿に引き取られた後、関白・九条幸家に嫁いでいる。その系譜は大正天皇の皇后で昭和天皇の母である貞明皇后とにつながっており、今上天皇や皇太子殿下には、浅井の血が流れていることになるわけじゃよ。
ちなみに江姫と秀忠の間に生まれ、秀吉の遺言で秀頼に嫁がされた千姫も慶長2年(1597)の酉年生まれじゃよ。
朝ドラ「あさがきた」のモデル、広岡浅子も嘉永2年(1849)の酉年生まれじゃ。17歳で大坂の富豪・加島屋の広岡信五郎と結婚し、御一新の後は鉱山経営、加島銀行設立、大同生命創業、日本女子大創立、大阪YWCA創設と、その人生には「びっくりぽん」。まさに「一代の女傑」である。
「何でも初めから無理と思ったら、結果もそのようになります。無理でも目的を立てて、どうしたら完遂できるか、焦点を絞っていくことが大切です」
七転び八起きを上回る「九転十起生」をペンネームとした彼女にそういわれると、なんだか新年早々、元気が出てくるではないか。
そしてそして酉年生まれの女性といえば、尼将軍・北条政子さんを忘れてはなるまい。
政子さんは保元2年(1157)の生まれ。もうこのお方について、わしが説明することなどないわな。北条政子さんなくして源頼朝公はなく、鎌倉幕府もない。北条にとってその功績は偉大なるものがあるが、血なまぐさい武家の争いの中で最愛の息子や孫を殺され、女性として幸せな人生だったかどうかは微妙なものがあるな。
それにしても小松姫に江姫に広岡浅子、そして北条政子さん……酉年女子、パワフルすぎじゃよ。
で、酉年生まれの人の性格、キャラは……
そのほか、酉年生まれの人を列挙していくと、
- 作家の武者小路実篤(明治18年:1885)
- 作家の松本清張(明治42年:1909)
- 元内閣総理大臣の西園寺公望(嘉永2年:1849)
- 戯作者で絵師の十返舎一九(明和2年:1765)
- 江戸時代のインテリ・新井白石(明暦3年:1657)
- たくあん漬の沢庵宗彭(天正元年:1573)
- 洞ケ峠の筒井順慶(天文18年:1549)
- 鹿島の剣聖・塚原卜伝(延徳元年:1489)
- 越前朝倉氏の猛将・朝倉宗滴(文明9年:1477)
- 周防長門石見山城など7カ国の守護・大内義興(文明9年:1477)
- 能を大成させた観阿弥(正慶2年:1333)
- 新田義貞輩下として鎌倉攻めで奮戦・討死にした堀口貞満(永仁5年:1297)
- 後三年の役で目を射抜かれても戦った鎌倉景政(延久元年:1069)
- 源義朝公の長男、頼朝公の兄上の鎌倉悪源太こと源義平(永治元年:1141)
- 道鏡の皇位継承を阻止した和気清麻呂(天平5年:733)
さらに昭和、平成では、
- 昭和8年(1933)は黒柳徹子、高木ブー、
- 昭和20年(1945)はタモリ、吉永小百合、
- 昭和32年(1957)は大竹しのぶ、野田佳彦、東国原英夫、ラモス瑠偉、
- 昭和44年(1969)は橋下徹、福山雅治、
- 昭和56年(1981)は星野源、柴咲コウ、要潤
- 平成5年(1993)は、神木隆之介、有村架純、武井咲、志田未来、きゃりーぱみゅぱみゅ、のん、菅田将暉、山田涼介(Hey! Say! JUMP)、山本彩(NMB48)
そして、いまわしが密かにイチオシの乃木坂46のみさみさこと衞藤美彩たんも平成5年生まれの年女じゃよ!
あと、おまけとして湘南ベルマーレでは、曺貴裁監督(昭和44年:1969)山根視来(1993)が年男じゃよ。あとレッズに行っちゃったけど遠藤航もね。
閑話休題、ずいぶん長くなってしまったけど、こうしてみると酉年生まれの人のキャラがなんとなくわかるような気が……ぜんぜんしないしw ネットでぐぐってみたところ、酉(とり)は、十二支の9番目の申(さる)と11番目の戌(いぬ)の喧嘩を仲裁する役割があるそうで、酉年の人は几帳面で頭の回転が早く、どんな仕事でも要領よくこなすそうじゃ。いっぽうで理想とプライドが高くて負けず嫌い、じつは表裏があるとも。ここであげた人物をざっとみてみると、そんな気がしないでもない、かな。
今年の干支「丁酉」は、これまでの諸活動の機が熟して変化、転機、革命を迎えやすい年といわれておる。たしかに昨年あたりから国内外でキナ臭い感じがするけど、どうか平和でおだやかな1年になるよう願いたいものじゃな。