北条義時公を支えた側近、御内人として忘れてはならないもう一人が安東忠家じゃ。安東忠家と金窪行親はニコイチな名コンビとして『吾妻鏡』に登場してくる。そこで今回は安東忠家について紹介するぞ。
和田合戦でみせた安東忠家と金窪行親の御内人バディ
安東忠家は生誕も没年も不明。本姓は平で、駿河安倍川(安倍郡)の東岸地域に土着し本拠とした。北条時頼公に仕えた安東蓮聖がその子孫ではないかと思われる。
建暦3年(1213)、「泉親衡の乱」では、金窪行親とのコンビで和田胤長を謀叛のかどで捕縛、尋問した記録がある。そして北条義時公が没収した胤長の所領を行親と分割下賜され、和田義盛の代官を追い出した記録がある。
和田義盛を挑発し、和田合戦に至る過程では、金窪行親とバディを組んで、義時公の手足となって働いた様子がうかがいしれる。和田義盛らの首実検に立ち会い、亡卒、生虜の交名づくりにも参画している。
源実朝暗殺、公暁の首実検で指燭を取る
建保7年(1219)、源実朝公を暗殺した公暁の首が義時公のもとに届けられたときにはともび検分にあたり、忠家は指燭を取る役目を請け負っている。
(長尾)定景彼の首を持ち帰りをはんぬ。即ち義村京兆(義時)の御亭に持参す。亭主出居しその首を見らる。安東次郎忠家指燭を取る。李部(泰時)仰せられて云く、正しく未だ阿闍梨の面を見奉らず。猶疑貽有りと(『吾妻鏡』建保7年1月27日)。
「指燭」とは室内で使う携帯用の松明である。義時公と泰時公、三浦義村らが、怒りと悲しみが充満した暗い部屋で、忠家が照らす灯りで公暁の首実験をしているというのは、想像しただけでもぞっとする場面じゃ。泰時公は「これが公暁の首かどうかわからぬ!」といっておるのも、想像力を掻き立てるではないか。
承久の乱、宇治川の戦いで奮戦
その後、忠家は義時公の命に背いたことから駿河国へ逼塞する。しかし、承久の乱が起こり、鎌倉の、北条の危機を知ると、西上する北条泰時公の軍勢に馳せ参じた。
今日黄昏に及び、武州駿河の国に至る。爰に安東兵衛の尉忠家、この間右京兆の命に背く事有り、当国に籠居す。武州の上洛を聞き、駕を廻らし来たり加わる。武州云く、客は勘発人なり。同道然るべからざるかと。忠家云く、儀を存ずるは無為の時の事なり。命を軍旅に棄てんが為進発する上は、鎌倉に申せられざると雖も、何事か有らんかてえり。遂に以て扈従すと(『吾妻鏡』承久3年1月27日条)。
はじめ、泰時公は忠家の参陣を拒んだ。ただ、忠家の忠義に感じ入ったのか、最終的には随従を許す。忠家は宇治川での戦いで、大いに奮戦したようじゃ。
武州(泰時)河を越え相戦わずんば、官軍を敗り難きの由相計り、芝田橘六兼義を召し、河の浅瀬を尋ね究むべきの旨を示す。兼義南條七郎を伴い、眞木嶋に馳せ下る。昨日の雨に依って、緑水の流れ濁り、白浪漲り落ち、淵底を窺い難きと雖も、水練として 遂にその浅深を知る。頃之馳せ帰り、渡らしむるの條相違有るべからざるの由申しをはんぬ。卯の三刻に及び、兼義・春日刑部三郎貞幸等、命を受け宇治河伏見津の瀬を渡らんが為馳せ行く。佐々木四郎左衛門の尉信綱・中山の次郎重継・安東兵衛尉忠家等、兼義の後に従い、河俣に副い下行す。信綱・貞幸云く、爰か瀬は爰か瀬はてえり。兼義遂に返答すること能わず。数町を経るの後鞭を揚げ進む。信綱・重継・貞幸・忠家同じく渡る。官軍これを見て、同時に矢を発つ(『吾妻鏡』承久3年6月14日条)。
この日、宇治川は前日の雨で水量が増え渡河は困難であった。それでも泰時公は芝田兼義に命じて浅瀬を探し、渡河を決行する。安東忠家もここに加わるが、宮方は矢を放ってくる。たいへんな激戦となり、鎌倉軍は98人もの犠牲を出しながらも、勝利を収めることができたのじゃ。
忠家は承久の乱の交名に名を連ねている。じゃが、それ以降、『吾妻鏡』には登場してこない。それから間もなく没したということなのかもしれぬな。
忠家は和田合戦、実朝公暗殺、承久の乱という北条にとってターニングポイントとなる場面にその名が刻まれており、北条被官として重要な役目を果たしたことは確かじゃろう。
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、これから頼朝公の遺志を継ぎ、いよいよ義時公が鎌倉の頂点へと駆け上がっていくことになる。そんな義時公を支えた安東忠家や金窪行親といった北条被官ははたして描かれるのじゃろうか。
オープニングタイトルにその名が出てくることを期待したい。