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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

泣こよかひっ飛べ!薩摩の士風と郷中教育~なぜ、下加冶屋町からこんなに偉人が出たのか

鹿児島を漫遊したとき、歴史ロード「維新ふるさとの道」をぶらぶらした。この甲突川沿いの下加冶屋町は、西郷隆盛、大久保利通、東郷平八郎ら幕末明治の偉人を多数輩出している地域じゃ。川岸約440mには、そのことを顕彰し、歴史を学べる解説板が設置してある。

大久保利通像

大久保利通像

なお、暗君なしとよばれた島津の殿様の歴史はこちらに書いたので、よければ読んでほしい。

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幕末明治の偉人を輩出した下加治屋町

それにしても、この狭い地域からこんなにたくさんの人物が輩出されたのは不思議である。もちろん薩摩閥、西郷や大久保の縁故といってしまえばそれまでじゃ。しかし、そうだとしても、この町から生まれた人物の事績はやはり尋常ではない。

加冶屋町は鹿児島市中央部、甲突川下流域に位置している。鍛冶屋町の町名の由来は、鍛冶屋さんがたくさんいたから、加治木から移住してきた人が多く加治木がなまって鍛冶屋になったなどの説がある。近世においては上之加治屋町、下之加治屋町と分けられていた。鶴丸城からはそこそこ遠い位置にあるため、このあたりは小姓与(おこしょうぐみ)と呼ばれる下級武士が住んでいた。

明治維新から日露戦争まで、政治家、軍人など明治政府の中枢人物がここから巣立っている。司馬遼太郎さんは「いわば、明治維新から日露戦争までを、一町内でやったようなものである」と述べている。ほんとうにそのとおりじゃな。

加治屋町 歴史ロード維新ふるさとの道

ちなみに、下加冶屋町あたりで生まれ育った偉人はご覧の通り。

  • 西郷隆盛・従道
  • 大久保利通
  • 黒田清隆
  • 村田新八
  • 有馬新七
  • 大山巌
  • 東郷平八郎
  • 黒木為楨
  • 村田新八
  • 篠原国幹
  • 樺山資紀
  • 吉井友実
  • 牧野伸顕 他

たしかにすごい。じっさいに歩いてみると、偉人たちはみな小学校の学区レベルで生まれ育ったことが実感できる。そのへんのガキどもがこぞって東京に出て国を動かしてしまったのじゃから、驚くほかはない。

では、なぜ、有為な人材がこんなにたくさん出てきたのじゃろうか。よく理由としてあげられるのが薩摩独特の「郷中教育」である。

郷中教育と日新公「いろは歌」

甲突川(鹿児島市内)

甲突川(鹿児島市内)

薩摩藩は他藩に比べて武士が多かった。明治維新直後の調査では、鹿児島県の人口の約25%が士族だった。全国の華士卒族は6%であり、いかに薩摩藩は武士が多かったかがよくわかる。しかも日本最南端の地である。独立意識も防衛意識も高い。そんな薩摩藩だからこそ、武士の教育は藩政の重要テーマであったわけじゃ。

「郷中」とは今でいうところの町内会のようなもので、「郷中教育」は、郷の単位で行われた薩摩藩独特の青少年教育のことじゃ。6歳以上の男子が対象となったらしい。

郷中の青少年は豪中年齢で下記のように区分される。

  • 小稚児(こちご) 6~10歳
  • 長稚児(おせちご) 11~元服前の15歳
  • 二才にせ) 15~25歳
  • 長老(おせ) 25歳以上

郷中教育は上のものが下を指導するというのが基本。西郷や大久保がいた下鍛冶屋郷中も、このシステムの中で学問、武術を通じて心を鍛錬していったようじゃ。

具体的な方法は藩で定めるのではなく自主性が重んじられたらしいが、島津日新斎(忠良)がつくった日新公「いろは歌」を規範としていた。

歴史ロード「維新ふるさとの道」にも、日新公「いろは歌」の歌と解説の案内板がたくさんあったぞ。

日新公「いろは歌」(歴史ロード「維新ふるさとの道」)

日新公「いろは歌」(歴史ロード「維新ふるさとの道」)

島津日新斎は「島津氏中興の祖」といわれ、文武兼備の名将であった。神仏儒の三教を良く学び、忠孝仁義を説き、青少年の志操教育に力を入れ、薩摩独特の士風と文化をつくったといわれている。その根本聖典が「いろは歌」じゃ。

では、日新公「いろは歌」から、いくつか拾ってみよう。

いにしへの道を聞きても唱へても わが行ひにせずばかひなし
昔の立派な教えを聞いたり唱えたりしていても、実行しなければ何の役にも立たない

楼(ろ)の上もはにふの小屋も住む人の 心にこそは高きいやしき
立派な家に住もうが粗末な小屋に住もうが、そんなことはどうでもよくて、住む人の心にこそ尊さ卑しさの差があるのだいの区別がある

はかなくも明日の命を頼むかな 今日も今日もと学びをばせで
明日があるからと今日やるべきことを先延ばしにするな

仏神他にましまさず人よりも 心に恥ぢよ天地よく知る
神仏は自分の中にいる。自分の良心に恥すべき行動はするな。天地はみているぞ

つらしとて恨みかへすな我れ人に 報ひ報ひてはてしなき世ぞ
他人の仕打ちが辛くても恨み返してはならない。恨みは恨みを呼ぶだけだ

名を今に残し置きける人も人 心も心何かおとらん
後世に名を残した偉人も、われわれと同じ「人間」である。何も違いはない

のがるまじ所をかねて思ひきれ 時に到りて涼しかるべし
命を捨てる覚悟を平素から決めておけば、いざという時も心は涼しげでいられる

思ほへず違ふものなり身の上の 欲をはなれて義を守れ人
私欲があると思わず道を外れてしまうものである。私欲を捨てて正道を歩め

無勢とて敵を侮ることなかれ 多勢を見ても恐るべからず
敵が少数だからといって侮ってはいけない。大勢だからといって恐れてはならない

敵となる人こそはわが師匠ぞと 思ひかへして身をも嗜め
自分にとって敵となる人こそわが師だと思い、わが身をつつしみなさい

道にただ身をば捨てむと思ひとれ 必ず天の助けあるべし
正道を歩むため命を捨てる覚悟を持て。必ず天の助けがある

ひとり身をあはれと思へ物ごとに 民にはゆるす心あるべし
老人や孤児など独り身の人をいたわりなさい。民には寛大な心で接しなさい

善に移り過れるをば改めよ 義不義は生れつかぬものなり
過ちはすぐに改めなさい。義不義は生まれつきのものではない

少しきを足れりとも知れ満ちぬれば 月もほどなき十六夜のそら
少し足りないぐらいで満足しておけ。月も十五夜には満月になるが、十六夜からは欠け始める

鹿児島の神社とかには「負けるな」「嘘をつくな」「弱い者をいじめるな」の3つがよく掲げてあるという。これも日新公「いろは歌」と郷中教育の教えじゃろう。一つ一つ読んでいると現代にも通じる内容で身が引き締まる思いがする。

西郷や大久保も、当然これはそらんじて負ったんじゃろう。

薩摩武士の規範となった新納忠元の「二才咄格式定目」

大久保利通生い立ちの地

大久保利通生い立ちの地

この日新公「いろは歌」と同様に、郷中教育の指針とされたのが「二才咄格式定目」(にせばなしかくしきじょうもく)じゃ。

これは、文禄慶長の役で薩摩軍が朝鮮に出兵した際、残された青少年の風紀の乱れを感じた留守居役の新納忠元が、日新公「いろは歌」のエッセンスをもとに定めたもの。

新納忠元は「二才咄」という稚児と二才による集団をつくり、若者たちが守るべき規約として「格式定目」を定めたのじゃ。

一.第一武道を嗜むべき事
まず武道を嗜むこと

一.兼ねて士の格式油断なく穿儀致すべき事
 武士道の本義を油断なく実践せよ

一.万一用事に付きて咄外の人に参会致し候はゞ用事相済み次第早速罷帰り長座致す間敷事
用事で咄外の集まりに出ても、用が済めば早く帰れ、長居するな

一.咄相中何色によらず、入魂に申合わせ候儀肝要たるべき事
何事も、グループ内でよく相談の上処理することが肝要である

一.朋党中無作法の過言互いに申し懸けず専ら古風を守るべき事
同輩に無作法なことを、やたらに話しかけるものではない。古風を守るべし

一.咄相中誰人にても他所に差越候節その場に於て相分かち難き儀到来致し候節は、幾度も相中得と穿儀致し越度之無き様相働くべき事
グループの誰であっても、他所に行って判らぬ点が出た場合には仲間とよく話し合い、落ち度の無いようにすべきである 

一.第一は虚言など申さざる儀士道の本意に候条、専らその旨を相守るべき事
嘘を言わない事は士道の本意である、その旨をよく守るべし 

一.忠孝之道大形之無き様相心懸くべく候 然しながら逃れざる儀到来候節は其場おくれを取らざる様相働くべき事武士の本意たるべき事
忠孝の道は大仰にするものではない。忠孝の道は大仰にするものではない。その旨心がけるべきであるが、必要なときには後れを取らぬことが武士の本質である

一.山坂の達者は心懸くべき事
山坂を歩いて体を鍛えよ

一.二才と申す者は、落鬢を斬り、大りはをとり候事にては之無き候。諸事武辺を心懸け心底忠孝之道に背かざる事第一の二才と申す物にて候。此儀は咄外の人絶えて知らざる事にて候
二才(薩摩の若者)は髪型や外見に凝ったりするものではない。万事に質実剛健、忠孝の道に背かないことが二才の第一である。

第一の二才と申す物にて候

此儀は咄外の人絶えて知らざる事にて候 右条々堅固に相守るべし。もしこの旨に相背き候はゞ二才と言ふべからず 軍神摩利支天八幡大菩薩 武運の冥加尽き果つべき儀 
この事は部外者には判らぬものである これらはすべて厳重に守らなくてはならない。背けば二才を名乗る資格はなく、軍神摩利支天・八幡神の名において、武運尽き果てることは、疑いなきことである。

※訳はWikiより。

さすが「島津義久四天王」「鬼武蔵」、太閤秀吉をも感服させたという新納忠元じゃ。口舌の徒ではない武人の言葉だけに重みがあり、その遺訓「二才咄格式定目」は、日新公「いろは歌」とともに、薩摩武士の規範として血肉になっていったというわけじゃな。

泣こかい、飛ぼかい、泣こよかひっ飛べ

西郷隆盛、従道生誕地跡

西郷隆盛、従道生誕地跡

薩摩藩は武の国である。日頃の郷中の集まり以外にもさまざまな行事があったようで、その一部は今なお続いている。

「曽我どんの傘焼」は、曽我兄弟が父の仇討ちを遂げる際に傘を焼いて松明がわりにしたという故事に倣ったもので「孝」の精神を発揚するためのもの。薩摩では5月28日(旧暦)が近づくと、子ども達が家々をまわり、古くなった唐傘を集めて、磯の浜や甲突川で宵闇の中に火を放ったそうじゃ。

「妙円寺詣り」は、関ヶ原の戦いで島津義弘が徳川方の敵中を突破し帰国を果たした遺徳を偲んでの行事で、薩摩の武を練磨するものじゃ。鹿児島城下士は鎧兜に身を固め、9月14日(旧暦)夜、伊集院徳重神社(島津義弘菩提寺妙圓寺)までの20キロの道のりを歩いて参拝した。道中では『チェスト!関ヶ原』という掛け声を連呼するそうじゃよ。

歴史ロード「維新ふるさとの道」

歴史ロード「維新ふるさとの道」

また、鹿児島では、「泣こかい、飛ぼかい、泣こよかひっ飛べ」というの合言葉(?)があると聞いた。年長の二才が年少の稚児たちと連れだって遊びに行くと、田んぼに用水路がある。まず二才たちが飛び越える。続いて稚児たちが飛ぶわけじゃが、稚児たちは怖くて躊躇する。このとき二才たちは、このセリフで鼓舞するらしい。

西南戦争では桐野敏明の「議を言うな!」の一声で挙兵が決まったという。「とにかく行動せよ!」ということなんじゃろうが、このあたり、いかにも島津、薩摩らしいのう。

こうした士風が幕末に島津斉彬という名君を生み出し、西郷や大久保といった人物を輩出し、ご近所の若者を鼓舞しながら、いつの間にか明治維新をやり遂げてしまったということのじゃな。