明治150年の記念すべき年の大河ドラマ「西郷どん」。「史実無視にもほどがある!」「あまりにも雑すぎる!」と、なにかと不評で視聴率も低迷しているようじゃな。世界の渡辺謙演じる島津斉彬も死んでしまい、今後の先行きが危ぶまれておる。もっとも細かいところを割と気にしないわしは、なんだかんだで毎週楽しみにみておる。ただ、前回放送の、マントを纏って登場した亡霊斉彬の演出には、さすがにひっくりかえったぞ。これでは斉彬さん、不審者じゃよ!
あらためて島津斉彬の功績を……
それはともかく、今日はせっかくなので、まずは幕末の英主・島津斉彬についてじゃ。といっても、今さらここでダラダラ書いても周知のことばかりじゃと思うので、ざっくりと箇条書で。
- 島津斉興の嫡男として生まれる。島津家28代当主、薩摩11代藩主
- 聡明な斉彬は、祖父・重豪の影響を受けて洋学に傾倒した
- 斉興や重臣は蘭癖の斉彬を嫌い、側室のお由羅の子・久光の後継を望んだ
- 斉彬と久光と後継をめぐってお家騒動が起こる(お由羅騒動)
- 幕府の介入により斉興は隠居。斉彬が43歳にしてようやく藩主となる
- 積極的な人材登用を行い、西郷吉之助を見出す
- 斉彬は富国強兵に努め、造船、反射炉・溶鉱炉の建設などの集成館事業を興す
- 黒船来航の国難に幕政改革を求め、将軍継嗣では一橋慶喜を推し、徳川家定に養女・篤姫を嫁がせる
- 徳川慶福(家茂)を推す大老・井伊直弼と対立し、慶喜の将軍継嗣に失敗する
- 抗議のための率兵上洛を計画するが、コレラにかかり急死
「薩摩にバカ殿なし」といわれるが、その中でも斉彬が英邁であったことはまちがいないじゃろう。わずか7年の間に、斉彬は藩の富国強兵に努めるとともに、欧米列強の情報をつかんで幕政改革へと動き出す。その見識は、老中・阿部正弘をはじめ、徳川斉昭、松平慶永、伊達宗城ら開明的な藩主にも認められておったんじゃからな。
松平慶永は、「大名第一番の御方であり、自分はもちろんのこと、水戸烈侯、山内容堂、鍋島直正公なども及ばない」と斉彬を評したという。
「おいは、いつか斉彬様のお側で忠義を尽くしとうございます。じゃっと、こん右手で二度と刀を持てなくなりました」
「死んではならん。侍が重い刀を2本も差してふんぞり返る時代は終わるんだ。これからは弱き者の声を聞き、民のために尽くせる者のみが真の強い侍となる。お前はそういう侍となればよい」
「西郷どん」で、西郷が斉彬とはじめてあったシーンは、なかなかの名場面じゃったとわしは思うぞ。馬上の謙さんも颯爽としていたしな。この頃、「斉彬は江戸にいて西郷と会うわけがない!」という批判もあったようじゃが、ナレーションでちゃんとそれ言っているし、そこは許してあげてもよいのではないかと。
島津斉興の斉彬評
じゃが、斉彬の父・斉興は、わが子のことを英邁とは思っていなかったようじゃ。自身が隠居し、斉彬が藩主に就任すると、斉興は久光にこっそり手紙を書いて、斉彬についてこう記している。
一 自分とちかいうたくゝりにてさかしいくせ有之候事(自分とちがって疑りぶかく小賢しいところがある)
一 勇気少シ世事計ニ而不宜(勇気に乏しく、世事の扱いもよろしくない)
一 万事もれやすし(情報が漏れやすい)
一 無用之物すき多有之(無用のものを好む)
一 にきやか好之方(騒ぎを好む)
一 少膽ニ有之(肝っ玉が小さい)
一 付之者人きらい有之(付きの者の好き嫌いがある)
そして、斉彬は周囲の評判を気にするだけで、「世上の人気ほどの者ではないとし、若者が騒ぎ立てて無益なことがおこらないよう、何かあれば報せるように」と、しめくくっている。なかなか酷い言われようじゃな。
斉興にももちろん言い分はある。もともと斉興や調所広郷ら重臣は、斉彬が藩主になることには大反対。というのも、斉彬は先々代の島津重豪の影響を受けて「蘭癖」の気があるからじゃ。「蘭癖」は学問の奨励などいい面はあるものの、とにかくお金がかかるんじゃよ。
大河ドラマでも、鹿賀丈史さん演じる斉興が「先々代の500万両の借金が、調所(広郷)のおかげで目途が立ったところ」と斉彬とやりあう場面があったじゃろ。ようやく重豪のときにボロボロになった財政を再建したところで、「蘭癖」の斉彬を藩主に据えるようでは元の木阿弥。「無用之物すき多有之」というのは、まさにこのことじゃろう。
事実、斉彬の集成館事業はお金がかかり、けっきょくは領民にさらなる増税を課すことになっている。この点に関しては斉興の見立てもある意味、正しかったわけじゃな。そもそも調所がいなければ、薩摩藩は財政的に立ち行かなかったわけじゃし、その後の明治維新もどうなっていたかわからないし、斉興や調所の言い分にも理がある。
じゃが、そんな因循姑息では「日本は清国の二の舞になってしまうぞ!」というのが斉彬の主張で、その後の歴史を知っているわしらからすれば、これまた当然の意見。まあ、このあたりはいつの世にもある保守派と改革派の軋轢といえるが、幕末の薩摩藩もまた2つに割れてしまったというわけじゃ。その結果起こったのが「お由羅騒動」じゃよ。
お由羅の方はほんとうに呪詛したのか
「お由羅騒動」じゃが、実のところ、どこまでお由羅の方が暗躍していたかは、よくわからない。「西郷どん」では、斉彬の食事から毒が出てきて大騒動になっていたが、じっさいに毒が出てきたという記録はもちろんない。西郷もいきなり斉興とお由羅のとこに証拠もなくのりこんでいったのは、さすがに軽率じゃろう。
お由羅の方は、斉興の寵愛を一身に受けていたし、斉興と斉彬の関係をみていたわけじゃから、わが子・久光を藩主に据えたいという思いはあったじゃろう。やはりわが子はかわいいもので、こういう事件は歴史上、いくらもあるからな。じゃが、斉興や調所には斉彬を藩主に据えない理由があったわけで、お由羅の方が斉興の寵愛をよいことに、久光を無理やり藩主に据えようとしたという事件ではないんじゃよ。
事の発端は、斉彬派が幕府に薩摩藩が琉球との密貿易で儲けているとリークしたことじゃった。琉球との密貿易などは公然の秘密で、いまさらお咎めなしの案件じゃが、斉彬を評価していた老中・阿部正弘は薩摩藩を追求する。じゃが、けっきょく調所広郷が責を背負って自害し、斉興はそのまま藩主に居座り続け、斉彬派の思惑は外れる。
いっぽう国元では、斉彬の子がつぎつぎに早世するのはお由羅の方による呪詛が原因だという噂が、まことしやかに流れはじめる。中世じゃあるまいし「呪詛ってどうよ?」とも思わんでもないが、斉彬の四男・篤之助が2歳で夭逝すると斉彬派は沸騰する。
すると、機先を制するかのように、斉彬派がお由羅の方や久光派重臣を暗殺する謀議を行ったという咎で粛清される事件が起こる。かくして斉彬派は窮地に追い込まれていくが、けっきょくは老中・阿部正弘が将軍徳川家慶に働きかけて幕府が介入。斉興の隠居と斉彬の藩主就任が決まったというわけじゃ。
このあたり、だれかが筋書きを書いたのか。そのあたりは歴史の闇じゃ。黒幕は斉興やその周囲のように思えるが、斉彬派も暗躍しているから、正直、よくわからん。じゃが、もう一人の主役・島津久光は、この政争にまったく関与していないということだけは確かじゃろう。
もっとも、小柳ルミ子さんのお由羅が強烈すぎて、「母上はおいがお守りしもす!」という青木崇高さんの久光は、ややマザコン男にみえてしまうが、まあ、これも役作り。許容範囲じゃよ。
斉彬と久光は仲が良かった
そもそも久光と斉彬とはたいへん仲が良かったらしい。斉彬は勝海舟に久光のことを、「学問を好み、その見聞と記憶力の強さ、志操方正厳格なところは自分に勝っている」と紹介したという。
このまま斉彬が存命であれば、歴史もまた多少変わったかもしれない。じゃが、斉彬は安政の大獄で対立する井伊直弼を牽制するために、率兵上京を計画し、幕政改革に乗り出そうという矢先、コレラで病没してしまう。
西郷吉之助らは斉彬の死を、斉興やお由羅らによる毒殺と信じていたそうじゃ。そのためか、西郷は島津久光を、「じごろ」(田舎者)と呼んで、終生心を開かなかったといわれる。もちろん、これとて証拠があるわけではないし、少なくとも久光は関係ないじゃろう。
西郷には嫌われていたものの、このあと、久光は薩摩の国父として活躍する。まずは斉興の息がかかった島津豊後を退け、大久保一蔵の意見をとり入れ、斉彬派であった精忠組をとりこんでいく。文久2年(1862)、久光は率兵上京し、江戸に赴き幕政改革を促すが、これは兄・斉彬の遺志を継いでのものじゃろう。
短いながらも斉彬は、薩摩藩が幕末の表舞台に躍り出ていく下地をつくった。そして、その志を受け継ぎ、久光は薩摩の国父として尽力していく。まあ、こういうことじゃな。斉彬亡き後、大河ドラマでは青木崇高さん演じる「じごろ」も重要な役どころになってくるじゃろう。
いろいろといわれている「西郷どん」じゃが、久光をどう描くかで、ドラマの印象や評価は変わってくるじゃろう。よもや「で、わしはいつ将軍になるんだ?」みたいなトンチンカンなセリフを言わせることはないと思うが、はてさてどうなるかのう。
斉彬が斉興にロシアンルーレットで隠居を強要したり、不審者にしか見えない謎のマント男となった斉彬の亡霊が西郷の自決を止めたり、ちょっと「?」な場面も多々あるものの、ひー様や井伊直弼、長野主膳はいい味出している。北川景子さんの篤姫様もお美しいし、今後の展開に期待しようぞ。