新年2度目の更新は今年の干支、丙申生まれの佐々木道誉についてじゃ。婆娑羅大名の佐々木道誉、大河ドラマでは陣内孝則さんが好演しておったな。食えぬ男で、わが北条も煮え湯を飲まされたんじゃが、それでもわしはこやつのことはあまり憎めないんじゃよ。
世渡り上手な婆娑羅者・佐々木判官
佐々木佐渡判官入道、佐々木道誉は永仁4年(1396)、源平合戦で活躍した近江源氏・佐々木定綱、高綱の末裔にあたる京極氏に生まれた。諱は高氏で、偶然にも足利家の当主・又太郎高氏と同じ名じゃが、もちろん両者とも主君であったわし高時からの偏諱じゃ。検非違使をつとめていたときには後醍醐天皇にも随行しているが、もともと道誉はわしの御相伴衆として仕えていたのじゃ。ともに酒を飲み、田楽を愛で、闘犬を楽しんだ仲じゃ。わしが出家したときには、すすんでいっしょに頭を丸めてくれたしのう。「道誉」という法名は、そのときわしが与えたものなんじゃよ。
にもかかわらず、北条が落ち目になるとわしを裏切り、足利高氏についてしまったのはどういうことじゃ。北条仲時が近江国番場宿で五辻宮を報じた山の民らに囲まれ、無念の死を遂げたのも、裏で暗躍していたのは道誉じゃ。もっとも幕府に殉じる道誉などまったく想像できぬが、ともかくも食えぬ男よ。
その後、足利尊氏が建武政権に反旗を翻すと、道誉は箱根・竹ノ下の合戦で新田義貞に従軍するも、これまたあざやかなタイミングで裏切り、足利に勝利をもたらしておる。このあたり、尊氏とあらかじめ通じていたのか、それとも戦況をみて裏切ったのか、そこのところはわからぬが、ともかくも先を見るに聡い、世渡りの上手な男であることはまちがいなさそうじゃ。
道誉はその後、足利幕府のために働き、引付頭人、評定衆、政所執事などを歴任。四條畷の戦いなど、南朝との合戦にも参加し、若狭、近江、出雲、上総、飛騨、摂津の守護をつとめている。京極家の血筋は応仁の乱後、家督争いや浅井氏の台頭で衰退するも、京極高次・高知が信長、秀吉、家康に仕えて再興。明治維新までつづいて華族に列せられておる。
傍若無人な妙法院焼き討ち事件
佐々木道誉の傍若無人ぶりを示す逸話は数あれど、やはり妙法院焼き討ち事件じゃな。暦応3年のある日、佐々木道誉は小鷹狩の帰りにたまたま通った妙法院の紅葉の美しさに魅せられ、郎等に1本折ってとってくるように命じた。このとき、妙法院門主が御簾の中から紅葉を愛でていたが、突然の闖入者に驚いて坊官に注意させたところ、道誉の郎等は「結句御所とは何ぞ。かたはらいたの言や」と嘲笑して、さらに大きな枝を折って持ち去ろうとした。これをみた山法師達は激怒し、道誉の郎等を散々に打擲して門から外へ追い出してしまう。すると道誉は「何なる門主にてもをわせよ、此比道誉が内の者に向て、左様の事翔ん者は覚ぬ物を。」と大激怒。その夜、300余騎を率いて妙法院を焼き討ちにしてしまったのじゃ。風の強い日でもあり、火はあっという間に燃え広がり、妙法院は全焼。門主はなんとか逃れたものの、弟子の若宮は道誉の息子秀綱に、 板敷の下に逃れていたところを散々に打擲され、辱めを受けたそうじゃ。
妙法院は比叡山延暦寺の由緒ある門跡寺院。しかも門主は光厳院の弟・亮性法親王じゃから、こんなことをしてふつうはただですむはずはない。山門宗徒は抗議の強訴を繰り返し、朝廷も幕府に道誉と秀綱の処罰を求めた。けっきょく道誉父子は上総に配流となるのじゃが、さすがは婆娑羅者、上総へ赴くその一行は、賑々しい行列で人々の度肝を抜く。
道誉近江の国分寺迄、若党三百余騎、打送の為にとて前後に相順ふ。其輩悉猿皮をうつぼにかけ、猿皮の腰当をして、手毎に鴬篭を持せ、道々に酒肴を設て宿々に傾城を弄ぶ。事の体尋常の流人には替り、美々敷ぞ見へたりける。是も只公家の成敗を軽忽し、山門の鬱陶を嘲弄したる翔也。
比叡山の神獣である猿の皮を腰あてにするなど、明らかに山門への面当て、敵意と蔑視は丸出しじゃ。そもそも配流といっても上総は道誉の領国じゃないか。しかも1年後にはふつうに幕政に復帰しておるしな。おそらく尊氏、直義とはなんらかの下約束ができておったんじゃろうよ。ともかくも食えぬ男よ。
当代一の風流人〜楠木正儀との逸話
婆娑羅者・佐々木道誉について、おもしろい話をもうひとつ。足利尊氏没後、2代将軍。足利義詮の執事をつとめていた細川清氏が南朝にくだり、それを契機に南朝軍が京に攻め込んできたときのことじゃ。細川清氏の失脚も、じつは佐々木道誉の謀略と讒言によるものといわれておるが、それはさておき、足利義詮は天皇を奉じて近江に逃れることとなり、道誉も一時、都を離れることになる。そのとき、さすがは道誉、なかなか粋なはからいをみせておる。
ここに佐渡判官入道道誉都を落ける時、「我宿所へは定てさもとある大将を入替んずらん。」とて、尋常に取したためて、六間の会所には大文の畳を敷双べ、本尊・脇絵・花瓶・香炉・鑵子・盆に至まで、一様に皆置調へて、書院には義之が草書の偈・韓愈が文集、眠蔵には、沈の枕に鈍子の宿直物を取副て置く。十二間の遠侍には、鳥・兔・雉・白鳥、三竿に懸双べ、三石入許なる大筒に酒を湛へ、遁世者二人留置て、「誰にても此宿所へ来らん人に一献を進めよ。」と、巨細を申置にけり。
部下達は京都を逃れるにあたり屋敷を焼くことを進言した。じゃが、道誉は当代一の風流人。佐々木邸には南朝勢の有力者が入ることを予期して、あえて屋敷を飾り立ててから退いたというのじゃ。この京都退去は、そう長くは続かない。そう見越してのことであったのかもしれぬ。
そのあと、道誉の屋敷に入ったのは楠木正儀。道誉の風流ぶりに感じ入った正儀は兵に略奪一切を禁じる。南朝軍はその後、わずが20日程度で京を去ることになるのじゃが、そのとき楠木正儀は佐々木屋敷をそのままに、楠木秘蔵の鎧と太刀一振りを残して去ったという。
道誉が今度の振舞ひ、なさけ深く風情有りと、感ぜぬ人も無かりけり。例の古博奕(だぬき)に出しぬかれて、幾程なくて、楠太刀と鎧取られたりと、笑ふ族も多かりけり。
「太平記」にはこう記されておるが、いかにも道誉らしい、おもしろい逸話ではないか。屋敷に戻ってきた道誉は、さぞかし満面の笑みを浮かべたことじゃろう。たぶん、この事を肴に酒一升は飲めるぞ。道誉とはそういう男じゃ。わし、裏切られたが、こういうおもしろい男は大好きじゃよ。
百戦錬磨のケンカ屋〜斯波高経との確執
佐々木道誉は世渡り上手で傍若無人、それでいて当代一流の風流人だったが、ケンカも強かった。いや、腕力ではないぞ。政治的なケンカじゃ。でなければ、あのおかしな尊氏の下、魑魅魍魎が集う足利幕府でこれだけの地位を長く保てるわけはあるまい。
貞治5年(1366)、道誉は幕府の実力者・斯波高経と対立を深めていた。そんな矢先、高経から将軍家主催の花見の宴への招待を受け取る。おもしろくない道誉はその日に合わせて、あてつけのように勝持寺で豪華な花見を開催する勝持寺はあの、西行法師が出家したところじゃ。
京中の道々の物の上手共、独も不残皆引具して、大原野の花の本に宴を設け席を妝て、世に無類遊をぞしたりける。
本堂の庭に十囲の花木四本あり。此下に一丈余りの鍮石の花瓶を鋳懸て、一双の華に作り成し、其交に両囲の香炉を両机に並べて、一斤の名香を一度に焚上たれば、香風四方に散じて、人皆浮香世界の中に在が如し。
百味の珍膳を調へ百服の本非を飲て、懸物如山積上たり。
華開花落る事二十日、一城の人皆狂ぜるが如しと、牡丹妖艶の色を風せしも、げにさこそは有つらめと思知るゝ許也。
一丈(3メートル)もの真鍮の花瓶を用意して木々を立花にみたてたり、一斤(300グルム)もの名香を一気に炊き上げたり、100品もの料理、100服ものお茶をたてての豪快などんちゃん騒ぎ。これぞ道誉流の意趣返しじゃな。
これに怒った斯波高経は、道誉が税を滞納していたとの理由で摂津多田荘を没収するなどの措置にでるが、こうしたケンカは道誉がもっとも得意とするところ。道誉は有力守護を語らって義詮に讒言。斯波高経は弁明につとめるが、義詮は「条々の趣げにもさる事にて候へ共、今の世中我心にも任たる事にても無ければ、暫く越前の方へ下向有て、諸人の申処をも被宥候へかし」といわれ、斯波高経は黙って引き下がったという。まあ、百戦錬磨の道誉に、斯波高経ごときが勝てるわけないわな。それにしても、つくづく食えぬ男よ。
正平22年/貞治6年(1367年)、道誉は管領に細川頼之を推挙した後に隠居し、幕政から身を引く、そして、その5年後の文中2年/応安6年(1373年)に没、享年78。当時の寿命からすればそこそこの長生きじゃな。さぞかしストレスとは無縁に好き勝手に生きたんじゃろう。けっしてトップに立てるような男ではなく、いいとこ総務担当役員程度で終わりじゃろうが、でも、こういう生き方ができるというのは、つくづくうらやましいのう。
わしももう少し長生きをして、道誉といっしょに酒を酌み交わしたかった。それがいちばんの心残りじゃよ。