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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

嘉暦・元徳の騒動~北条高時、長崎円喜粛正を企てるもあえなく失敗した件

北条高時といえば、内管領・長崎円喜や外戚・安達時顕に政務を任せ、自らは犬あわせ(闘犬)と田楽にうつつをぬかした暗愚な人物、というのが世間一般の見方のようじゃな。この点については「太平記」はかなり大げさに書いている。さりとて全否定することはしない。ただ、じっさいのところどうだったのか。じつは、わしはわしなりに、幕政改革に乗り出そうとしていたんじゃよ。今回はそのことについて少々。

北条高時

北条高時像

台頭する御内人(得宗被官)

ところで「御内人」とは何か。本来、「御内」とは特定個人の従者をさすものじゃったが、鎌倉後期になると「御内」と言えば「得宗家の御内」をさすようになった。「御内人」とはつまり、北条得宗家の被官のことじゃよ。

主な御内人としては、工藤氏、安東氏、諏訪氏、平氏(長崎氏)、尾藤氏、南条氏、宿屋氏、関氏、金窪氏、紀氏、飯尾氏など得宗家累代に仕えてきた氏族がいる。そのほかにも、北条に粛正された三浦氏、和田氏、安達氏など元有力御家人の生き残りもおる。

その御内人の頂点に立つのが内管領である。内管領は得宗家の家令であるばかりか、侍所所司と寄合衆も兼ねたので、幕政に絶大な影響力を及ぼした。平頼綱、長崎円喜・高資父子が有名じゃな。そして、内管領はいつしか執権や得宗を凌駕する実力をもつようになる。

貨幣経済がすすんだ鎌倉後期には、御家人の生活はどんどん窮乏していった。しかし、御内人は得宗の威光を背景に焼け太りしてどんどん富裕になっていく。わしが執権につく頃には、御家人の不満は大いに高まっていたのじゃよ。

嘉暦の騒動 得宗家の跡目争い

正中3年(1326)3月13日、わしは病もあって24歳で出家した。もともと蒲柳の質であり、執権の激務には耐えられなかったのじゃが、ここで起こったのがわしの跡目争いじゃ。

内管領の長崎円喜は、同じ御内人である五大院宗繁の妹・常葉前を母とするわしの長子・邦時を得宗後継者にしようと考えた。もちろん、わしもそのつもりであった。じゃは、長崎には御内人から外戚を出すことにより、北条被官による鎌倉支配を盤石にしようという意図があった。

とはいえ、邦時はまだまだ幼少である。そこで、長崎は邦時が継承するまでの中継ぎとして、金沢貞顕を執権にしようと考えた。貞顕の叔母は五大院に嫁いでおるのも都合がよかった。貞顕はわしと同じように出家しようとしていた矢先じゃったが、執権の座につくのはまんざらでもなかったようで、これを引き受けた。

ところがこれに安達と母上の大方殿が噛みついた! わしの正室は安達時顕の娘であったが、その間に子はいなかった。もし、邦時が家督を継承すれば、安達は外戚としての力を失ってしまう。

母上もまた、得宗家が御内人に牛耳られてしまうことを恐れたようじゃ。そこで安達は母上と組んで、わしの弟の泰家を後継にねじこもうとしたんじゃよ。

じゃが、長崎は貞顕を執権にすえてしまう。すると泰家はこれを恥辱として、とつぜん出家してしまったのじゃ。そして泰家に続き、長崎や貞顕に不満をもつ連中もまた、相次いで出家してしまった。

やがて鎌倉中に、怒り心頭の母上と泰家が貞顕殺害を計画しているという風聞がたつ。すると貞顕はこれに恐怖して、やっぱり出家すると言い出し、けっきょく在職10日余りで執権を辞任してしまうのじゃ

このあとしばし、執権職は空位となる。みなが母上と泰家、安達を恐れて執権のなり手がいない。さりとてそれでは政務は滞る。けっきょくは引付衆一番頭人の赤橋守時が執権に、大仏維貞が連署に就任して事はどうにか収まったのじゃ。

4月26日、元号は「正中」から「嘉暦」に改元された。それゆえ、この一連の事件を「嘉暦の騒動」と呼んでおる。

元徳の騒動、高時に陰謀の企てあり

この間、わし高時は何をしていたか。巷間流布しているのは闘犬と田楽に呆けて政治をほったらかしていたという印象があるようじゃな。じゃが、これは正確ではない。金沢貞顕の書状にも残っているように、わしは病弱ゆえ寝たり起きたりをくり返していたのじゃ。政務に精を出したくてもそれが叶わなかったんじゃ。

少なくとも、わしは阿呆ではないし、まして暴君ではない。元気な時には夢窓疎石や南山士雲ら禅僧と語らい、仏画に勤しみ、穏やかな日々を過ごしておった。御家人たちに不平不満がたまっていたこともわかっておったし、単なるお飾り、傀儡にされてしまったことを、得宗家の者として忸怩たる思いで日々、過ごしておった。

ちょうどこの頃、都で後醍醐天皇による討幕の動きが明らかになる。正中の変じゃ。最近の研究では、正中の変は持明院統、あるいは邦良親王による後醍醐帝を失脚させるための陰謀であったという説がある。つまり、この時点で、後醍醐帝は鎌倉との協調を期待していたというのじゃ。

事の真偽はともかくとしいて、正中の変について鎌倉では後醍醐帝の罪を問わない方針を打ち出した。この寛大な処置は、後醍醐帝がじっさいに無罪であったことの裏付けであるという学者さんもおる。いずれにせよ、争いごとのが嫌いなわしは、もちろんこれを支持した。じゃが、長崎円喜は断固として厳しい処置を主張し。けっきょくは日野資朝の有罪を落としどころに決着した。

じゃが、このあたりから、わしと長崎の間に隙間風が吹き始めた。かつてわしの父・貞時は、執事の平頼綱(長崎円喜の祖父)を討ち、幕政改革に乗り出した。そこでわしも父に倣い、得宗復権、幕府再建のために長崎父子排除に立ち上がることを決意したんじゃよ。

「叔父御。このごろの高資は、ちょっと増長しすぎではないか?」

元弘元(1331)年8月(元徳2年、1330年との説も)、わしは幕府奉行人のひとり、長崎高頼叔父に相談した。そして長崎父子を粛清すべく、側近たちと内々に事をすすめておったのじゃが……これがあっさりとバレた! 

「大守、不穏な話を耳にしたのですが……」

詰問されれば、情けないが、わしはもう「知らぬ、存ぜぬ」と必死で逃げるほかはない。

『鎌倉年代記』にはこうある。

典薬の頭長朝朝臣、前の宮内少輔忠時朝臣、長崎三郎左衛門の尉高頼、工藤七郎右衛門入道、原新左衛門入道等召し捕られ、各々配流せらる。陰謀の企て有るに依ってなり。

『保暦間記』にはこうある。

秋比、高資驕の余に高時が命に随わず。亡気ながら奇怪に思ひけるが、長崎三郎左衛門尉高頼以下の者どもに云付て、高資を討んとしける程に、事顕て高時が身も危ければ、我は知らずと申ければ、高頼が不思議の企なりとて奥州へ流罪す。余党は国々へ遣れけり。

かくして、わしの復権はあっけなく頓挫した。じゃが、もし長崎父子の粛正が成功していたら、どうなっていたじゃろうか。頼りにすべきは弟の泰家、あるいは赤橋守時、金沢貞顕あたりじゃろうか。

とくに守時は足利高氏の義兄だし、ここで高氏をうまく幕政に引きこむことができていれば、幕府の命運はあるいは……いや、足利家には家時の置き文とかいう物騒なものがあるという。北条への臥薪嘗胆の思いは根強かったわけで、この「もしも」は成立せんかもしれぬな。

この間、京都の情勢もまた風雲急を告げていた。当今後醍醐天皇は討幕に動き出し、笠置山に逃れた。悪党・楠木正成も兵を挙げた。

かくして鎌倉幕府滅亡はカウントダウンに入っていったんじゃよ。