今日は、後醍醐天皇の護持僧・文観房弘真のことじゃ。房号は文観、法諱は律僧としては殊音、密教僧としては弘真。後醍醐天皇の中宮・禧子の安産祈願にかこつけて関東調伏を行ったということで、鬼界ケ島へ遠流になった妖僧じゃ。文観は後世、あまり良いイメージを世間からもたれてないようじゃが、最近はその評価も見直されているらしいぞ。
文観の出自
文観は弘安元年(1278)、播磨国北条郷大野(兵庫県加古川市大野)の豪族・大野重真の孫として誕生した。大野氏は、宇多源氏の祖である源雅信の流れをくむ子孫を自称しておる。
文観の母は観音菩薩に深く帰依していた。伝承によれば、文観の母は懐妊時に観音菩薩の夢を見て観音から白の宝珠を授けられたが、この奇瑞によって生まれたのが文観だというのじゃ。
文観は数え13歳で播磨国法華山一乗寺で仏門に入る。その後、播磨国北条常楽寺に学んで律僧としての道を歩みはじめた。その後、文観は奈良に上り、興福寺、西大寺に学ぶ。西大寺叡尊の十三回忌には文殊菩薩図像を図絵しており、わしと一緒で画才に恵まれておったんじゃな。
やがて大和竹林寺長老となり、39歳の時、醍醐寺報恩院で道順から伝法灌頂を受け阿闍梨となる。かなりの秀才で法力もあったのじゃろう。ちなみに「文観」は文殊菩薩と観音菩薩への信仰が篤かったようじゃ。文観の文は文殊菩薩の文、観は観音菩薩の観に由来しているらしいぞ。
元亨3年(1323)、文観が数え46歳のとき、勅命により宮廷に招かれる。文観の師・道順が後醍醐父の後宇多天皇に崇敬されていた縁によるものじゃろう。文観は、真言密教の高度な授法を後醍醐天皇に授け、その縁で討幕計画に加担していくことになるのじゃ。
文観は後醍醐天皇のフィクサーだった?
作家の永井路子さんは著書『続・悪霊列伝』で、文観についてこう書いている。
じつは、彼こそ後醍醐の側近第一号で、討幕にはじまる南北朝動乱の企画・立案・演出・出演者なのである。後醍醐の動きを追うと、文観が黒幕として采配を振るっていることがよくわかる。たとえば討幕に失敗した後醍醐がはじめに逃げこんだ笠置山の笠置寺は、文観の相弟子、聖尋が管理する寺だし、二度目に逃げ込む吉野山には、有名な醍醐寺系の寺、金峯山寺がある。
たしかに播磨の赤松円心、河内の楠木正成と後醍醐天皇を結びつけたのも文観のネットワークによるものだといわれている。
当時は、悪霊とか呪術が効力をもち、宗教勢力がパワーをもっていた時代である。文観が裏方として修験系の寺院を倒幕運動に引き込み、 宮方を支えていたという感じはしないでもない。そういえば、日野俊基も修験者として山伏姿で諸国の反鎌倉勢力を糾合していたしな。
文観は「淫祠邪教」 真言立川流の大成者?
文観は真言立川流の大成者といわれている。立川流というのは、真言宗から派生した密教の一派で、男女交合の境地を即身成仏の境地と見なし、オーガズムに達することで大日如来と一体になるという教義で……んん???
立川流は仏教では禁止されている性交を奨励していたことで、一般的には「淫祠邪教」とされ、江戸時代には完全に廃れてしまったそうじゃ。
なんでも髑髏本尊とかいう怪しげなものがあって、高貴な人の頭蓋骨に呪符を入れ、男女の精液を混合した和合水を塗って、金銀箔を貼り、髑髏に魂を吹き込んで本尊としたとか(俗説とも)。ふつうではないわな。
じゃが、これには異論もあって、最近の研究では立川流と髑髏本尊とはまったく関係がなく、文観もまたそれらとはまったく無縁だったとされている。
文観は後に建武政権下で東寺一長者・東寺大勧進職・醍醐寺座主という真言宗の要職をほぼ独占した。そのため高野山金剛峰寺の衆徒から大きな反発を受けたという。また、徹頭徹尾大覚寺統に忠誠を尽したために持明院統からも煙たがられ、北朝と室町幕府と蜜月で文観のあとに醍醐寺座主となった三宝院賢俊とも対立したという。そうしたこともあって、いつのまにやら「邪教立川流」の大成者という烙印を押されたというのじゃ。
まあ、当方はこのあたりはズブの素人ゆえ、深入りをさけたい。ただ、いずれにせよ文観が「験力無双の仁」との評判の僧で、密教好きの後醍醐天皇の帰依を受けたことだけは確かである。
有名な『絹本著色後醍醐天皇御像』は、文観が後醍醐天皇に真言密教最秘の儀式である「瑜祇灌頂」を授けたときのものである。これにより後醍醐天皇は王法・仏法・神祇の統合の象徴となったというのじゃよ。
関東調伏の失敗と鬼界ヶ島への配流
元弘元年(1331))、後醍醐天皇が倒幕を企て、円観、文観、忠円らが中宮の安産祈願に事よせて「関東調伏」の祈祷をしているという報せが届した。これにより文観は六波羅探題に捕らえられ、鎌倉で取り調べを受けることになる。
鎌倉は文観らが祈祷を行なっていた現場の図面を押収していたらしい。かくして文観は侍所での拷問に耐えかね、事の次第を白状した。たとえ身分の高い僧であろうとも、鎌倉を呪うなど死罪になって当然である。
じゃが、その夜、不思議なことが起こった。わしが眠っているとき、夢の中に数千の猿があらわれた。猿どもは「われらは、比叡に住む仏の使者である」と言い出し、文観らを拷問したことで「かならず仏罰があたる。さきごろの地震もその報いである」と告げて姿を消した。
わしはなんだか嫌な気分になって、文観の様子を見に行かせた。すると、獄舎の障子に不動明王の姿が写しだされていたというのじゃ。
其夜相摸入道の夢に、比叡山の東坂本より、猿共二三千群来て、此上人を守護し奉る体にて、並居たりと見給ふ。夢の告只事ならずと思はれければ、未明に預人の許へ使者を遣し、「上人嗷問の事暫く閣べし。」と被下知処に、預人遮て相摸入道の方に来て申けるは、「上人嗷問の事、此暁既其沙汰を致候はん為に、上人の御方へ参て候へば、燭を挑て観法定坐せられて候。其御影後の障子に移て、不動明王の貌に見させ給候つる間、驚き存て、先事の子細を申入ん為に、参て候也。」とぞ申ける。夢想と云、示現と云、只人にあらずとて、嗷問の沙汰を止られけり。
仏罰なんぞ当たってはたまったものではないからな。わしはが文観らの死刑を中止し、遠島の処分に変更したのじゃ。かくして文観はわしのおかげで命拾いし、薩摩国鬼界ヶ島(硫黄島)へと遠流となったのじゃ。
ちなみに後醍醐天皇による討幕を密告してきたのは「後の三房」の一人である吉田定房じゃ。定房は後醍醐天皇の乳父で、このクーデターが今後の帝王の立場を危うくするとみて、倒幕計画の首謀者を日野俊基とし、危機を未然に防ごうとしたといわれている。そのあたりはこちらの記事を読んでもらえたら幸いじゃ。
建武政権に復活、東寺一長者となる
鎌倉幕府が滅亡すると文観はカムバックする。京都に戻ってきて後醍醐天皇の側近として再び仕え、東寺一長者、醍醐寺座主となり、建武政権のもとでついに顕密仏教界の頂点に立ったのじゃ。
じゃが、「太平記」には建武政権で栄華を極めた文観の奢侈ぶりが記されており、あまり評判はよろしくない。このあたり、先ほども少し述べたが「太平記」の作者も時の為政者から影響を受けたのかもしれない。
彼文観僧正の振舞を伝聞こそ不思議なれ。適一旦名利の境界を離れ、既に三密瑜伽の道場に入給し無益、只利欲・名聞にのみにて、更に観念定坐の勤を忘たるに似り。
何の用ともなきに財宝を積倉不扶貧窮、傍に集武具士卒を逞す。成媚結交輩には、無忠賞を被申与ける間、文観僧正の手の者と号して、建党張臂者、洛中に充満して、及五六百人。されば程遠からぬ参内の時も、 輿の前後に数百騎の兵打囲で、路次を横行しければ、法衣忽汚馬蹄塵、律儀空落人口譏。
やがて文観は、高野山衆徒からの弾圧をうける。そしてついには東寺長者の地位を剥奪され、甲斐国へと流されてしまうというわけじゃ。
しかししかし、それでも文観はへこたれない。南北朝の争いが始まると文観は吉野に赴き、後醍醐天皇を支える。そして、後醍醐天皇崩御後も南朝の興隆のために働くのじゃ。観応の擾乱、正平の一統により、後村上天皇の護持僧であった文観は東寺一長者に返り咲く。じゃが、再び南北朝の対立が再燃すると文観はその地位を終われ、栄華は長くは続かなかった。
文観の再評価
正平12年/延文2年(1357)10月9日、文観は河内国金剛寺で入滅。享年80。波瀾万丈の生涯であった。
文観は後醍醐天皇、後村上天皇の護持僧として政治面で活躍したほか、播磨国では民衆のために土木事業にも尽力している。多数の仏教書を著し「三尊合行法」の理論を完成させ、仏画においても非凡な才を発揮するなど、多芸多才な人物であった。
「太平記」の作者は文観を「邪魔外道」の妖僧として描いているが、そうした汚名は後世の為政者によって着せられたものであるようじゃ。文観の再評価は始まったばかりじゃ。妖僧・文観像は、いずれ碩学の真言僧として見直されるときが来るかもしれぬな。