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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

対馬の歴史をざっくり解説〜国生み神話から白村江、元寇、倭寇、朝鮮通信使、日本海海戦まで

壱岐対馬に行って来たので、前回の壱岐に続いて今回は対馬の歴史と旅の備忘録をまとめてみた。対馬といえば、コミックス『アンゴルモア 元寇合戦記』やゲーム「GOAST OF TSUSHIMA」で注目のスポットじゃな。

対馬やまねこ空港

対馬やまねこ空港

なお、壱岐の歴史についてはこちらをぜひ。

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対馬へのアクセス

対馬

対馬(Google earthより)

玄海灘に浮かぶ対馬は、対馬島と100を超える小さな島々から成る。面積は約700㎢、日本で10番目に大きく、南北82km、東西18kmと南北に細長い島じゃ。今回、わしは島内をレンタカーで移動したが、体感としても「かなりでかい」という印象を持ったぞ。

現在の人口は約3万人、九州本土からは約130km、韓国へは約50kmで、現地には韓国人旅行者が多い。わしが宿泊した比田勝の東横インの宿泊者はほぼ全員韓国人。現地の旅行ガイドや案内板にはハングルが併記されており、いかにも「国境の島」という感じであったぞ。

わしは壱岐の芦辺から対馬の厳原まで、九州郵船のジェットフォイル「ヴーナス2」を利用した。所要時間は約1時間、博多からの直行だと2時間で到着する。他にも長崎空港、博多空港から空の便だと35分で到着する。

ちなみに韓国からは高速船で75分で着く。空路で釜山に入って韓国旅行を兼ねるという裏技も楽しそうではあるな。

神話の時代と古代の対馬

国生み神話、和多都美神社の龍宮伝説

『日本書紀』の「国生み神話」によれば、伊邪那岐命と伊邪那美命の二神が高天原の神々に命じられ、日本列島を構成する「八大島」を創成した際、対馬は淡路島、四国、隠岐、九州、壱岐についで6番目にできたとされている。

対馬は古来から海神信仰が厚い島じゃ。和多都美神社には、山幸彦こと彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)と海の女神・豊玉姫が祭られていて、龍宮伝説が残されている。

和多都美神社

和多都美神社

一直線に並ぶ5本の鳥居のうち2本は海中にそびえ、ちょうどわしが到着した頃から潮が満ちはじめた。龍宮伝説が伝わるのもむべなるかなと思わせるような厳かさ、幻想的な雰囲気を感じたぞ。

なお、日本の国生み神話についてはこちらも参考に読んでほしい。

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『魏志倭人伝』の対馬国

対馬が歴史に最初に登場するのは3世紀に編纂された『魏志倭人伝』である。

「始めて一海を度る千余里、対馬国に至る。その大官を卑狗といい、副を卑奴母離(ひなもり)という。居る所絶島、方四百余里ばかり。土地は山険しく、深林多く、道路は禽鹿の小径の如し。千余戸あり。良田なく、海物を食して自活し、船に乗りて南北に市糴(してき)す」

「対馬国」は断崖絶壁が多く、山が深く道は獣道のように細い。水田は少なく、海産物を食し、朝鮮半島と日本本土を往来して交易を行っているとある。

魏志倭人伝

魏志倭人伝

島の面積の約88%を山林が占める対馬の人々は船で大陸を往来する海洋民であった。古来より対馬人は大陸文化を日本へと伝える重要な役割を果たしてきたんじゃな。

倭人伝にある対馬国の中心がどこであったのかは特定されていない。じゃが、峰町の山辺遺跡で弥生時代の集落跡が確認されたことから、この辺りが対馬国の中心として有力視されているらしいぞ。

大和朝廷の時代〜白村江の戦いと金田城

対馬は遣隋使、遣唐使の寄港地であり、朝鮮半島や中国大陸との交通の要衝として重要な役割を担ってきた。大化の改新で律令制が施行されると、対馬は令制国の対馬国となり、現在の厳原に国府が置かれるようになる。

対馬に緊張状態をもたらしたのが、天智天皇2年(663)の白村江の戦いじゃ。中大兄皇子(天智天皇)は日本と同盟関係にあった百済が新羅に滅ぼされると、その再興のために援軍を送る。じゃが、日本は白村江で大敗してしまう。

金田城跡

金田城跡

天智天皇は唐・新羅の侵攻に備え、対馬に防人を送り込み、緊急時に狼煙をあげる烽(とぶひ)を設置した。そして天智天皇6年(667)には、浅茅湾南岸に金田城を築いて防衛体制を固めた。

金田城は日本最古級の朝鮮式山城の遺構がよく残っている。登山道もそれなりに整備されていて古代史ロマンを感じながら歩くことができる。これまで、わしもいろいろと山城を歩いてきたが、とにかく金田城は圧巻じゃった。ドーンと広がる眼下の浅芽湾の静けさと美しさ、それを借景とする古代の朝鮮式山城の遺構。これを観るためだけでも対馬に来る意義があるというものじゃ。

金田城 一の城戸跡

金田城 一の城戸跡

それにしても……「防人」のこと。

百船の
泊(は)つる対馬の浅茅山
時雨の雨にもみだひにけり

『万葉集』に読まれた防人のうたじゃ。当初、この地で防人として守備についた兵は東国出身者がほとんどだったらしい。幸い、唐・新羅は攻めては来なかったが、遠く離れた故郷に家族を残して3年もの間、この地に駐屯した東国人の寂しさは、いかばかりであったろうか。

おそらく、いま目にしている浅芽湾の景色は、防人が見たそれとほとんど変わらんのじゃろうな。

なお、金田城跡探訪記についてはこちらも読んでほしい。

奈良・平安時代〜新羅との緊張関係、刀伊の入寇

韓国展望所

韓国展望所(上対馬町)

それにしても対馬と韓国は目と鼻の先。天気がよければここから釜山の街の灯がみえるというしな。敵の軍船が攻めてくるのも見えるじゃろうし、元寇のときはさぞかし恐怖だったじゃろう。

さて、天智天皇の後を受けた天武天皇は、新羅との関係改善に努め、その後は遣新羅使が派遣されるなどしたが、両国関係のギクシャクは続いていく。

天平宝字3年(759)、新羅が日本の使節に無礼をはたらいたとして、藤原仲麻呂は新羅征討を計画している。最終的には藤原仲麻呂が失脚し計画は実行されなかったが、新羅はその後もわが国に度々入寇して来た。対馬はつねに対外的な緊張関係の最前線に晒され続けていたんじゃ。

寛仁3年(1019)、とつぜん正体不明の戝船50隻約3,000人が対馬に来襲した。記録されているだけで殺害された者365名、拉致された者1,289名という大惨事。対馬を襲った賊はその後は壱岐を蹂躙し、九州へと侵攻している。「刀伊の入寇」じゃ。

このとき、対馬の判官代・長岑諸近とその一族は賊の捕虜となってしまう。諸近は隙を見て脱出に成功し、その後、家族を探すために高麗に渡る。そこで賊の正体と捕らわれた日本人の消息が明らかになった。

刀伊と呼ばれた戝は、服装や武器などから「女真族」ではないかとみられた。初め高麗の海岸付近を荒らし周って、その後に日本へ向った。高麗軍は異戝が日本から戻って来るのを待ち伏せし、捕らわれていた日本人を救助した。しかし救助された人達の中に、諸近の家族の姿はなかった。

諸近は、救助された日本人の証言をもとに、事件の詳細を大宰府に報告した。これによって大宰府は刀伊の正体と捕虜の消息を知る事が出来たというわけじゃ。

『アンゴルモア』には、金田城を拠点とする刀伊祓という一軍を率いる長嶺判官というキャラが登場する。設定は遥か昔に対馬に送り込まれた「防人」の末裔となっているが、おそらく長岑諸近をイメージしてのキャラであろう。

なお、刀伊の入寇については、こちらにも書いたので、よろしければご参考まで。京都の麻呂のダメダメぶりがようわかるぞ。

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中世の対馬

鎌倉時代〜文永・弘安の役(蒙古襲来)

鎌倉時代になると全国に守護地頭が置かれ、対馬は武藤(少弐)氏が守護となり、現地では守護代が統治した。対馬には少弐氏の被官で、のちの宗氏の始祖となる惟宗氏が入島する。

それまで対馬では阿比留氏が勢力をもっていたが、当時国交を結んでいない高麗と交易をおこななうなど、大宰府の命に従わなかったことから、惟宗重尚に征討された。

蒙古が襲来したとされる小茂田浜

元軍が上陸したとされる小茂田浜

鎌倉時代のわが国を震撼させた事件といえば、やはり「元寇」、蒙古の襲来じゃ。この戦いは防衛戦争であったがゆえ、十分な恩賞を与えられなかった御家人たちの不満が高まり、幕府の命脈を縮めたとさえ言われておる。

対馬はその最初の犠牲者となる。文永11年(1274)、元・高麗連合軍は兵25,000人、高麗兵8,000人、水夫等6,700人、高麗が建造した艦船900隻という大軍団で攻めてきた。「文永の役」である。

10月5日、元・高麗連合軍は佐須浦・小茂田浜に殺到した。報らせを受けた守護代・宗助国は厳原の国府を出発、一族郎党80余騎を率いて迎撃する。じゃが、圧倒的な兵力差により全滅してしまう。宗助国の塚は首、胴体がバラバラに供養されているが、この一事をもっても戦いがいかに壮絶で凄惨であったかがわかるというものじゃ。

壱岐対馬九国の兵並びに男女、多く或は殺され、或は擒(と)らわれ、或は海に入り、或は崖より堕(お)ちし者、幾千万と云ふ事なし

日蓮は壱岐の惨状をこう伝えている。

文永の役については『アンゴルモア』にじつに詳しく描かれている。わしも帰宅してから再読したが、現地に行ったおかげで生々しいリアルさをもって、この戦いの苛烈さを再認識した。

物語の主人公・朽井迅三郎も、宗助国の孫娘・輝日も架空の人物じゃ。じゃが、原作のたかぎ七彦さんは、朽井迅三郎は同時代史料『八幡愚童訓』に名が出てくる対馬の流人・口井勝三と口井源三郎の兄弟をモデルにしたと書いておられるぞ。

ちなみに、こちらは小茂田浜神社にある宗助国の像。ずいぶんと躍動して若々しいが、文永の役で戦死したときのの助国は69歳、もうお爺ちゃんじゃからな。

宗助国の銅像

宗助国像(小茂田神社)

弘安4年(1281)、元は再びやってくる。「弘安の役」じゃ。二度目の遠征は軍船900隻に4万の兵を乗せた東路軍と、軍船3千500隻に10万の兵を乗せた江南軍の大軍を二手に分けた大規模な進軍であった。じゃが、大明神浦に上陸した東路軍は、郎将の康彦、康師子等が戦死するなど、日本側の激しい抵抗を受けている。

『アンゴルモア』は現在まだ文永の役、博多の戦いを描いているが、この先は弘安の役へと続いていくのじゃろう。蒙古との戦いを経験済み朽井迅三郎や輝日姫がさぞかし大活躍するであろうから、期待して待ちたい。

なお、蒙古襲来の時の鎌倉武士の奮戦ぶりについては、こちらの記事を読んでもらえれば幸いじゃ。

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室町時代〜倭寇と応永の外寇

蒙古襲来で蹂躙された壱岐、対馬、松浦、五島列島の民の中には、「それならばこっちからもやってやれ!」とばかりに、朝鮮半島や中国沿岸に乗り出し、海賊行為をするようになる者が出てきた。これが「倭寇」じゃ。

倭寇は朝鮮半島沿岸部を荒らしまわった。元寇が鎌倉幕府の寿命を縮めたように、倭寇は高麗滅亡の一因になったと言われている。高麗に代わって朝鮮を治めたのは、倭寇討伐で名をあげた李成桂である。

烏帽子岳展望所から眺める浅芽湾

烏帽子岳展望所から眺める浅芽湾

応永26年(1419)、倭寇討伐を大義名分に、朝鮮の軍船が対馬に襲来、浅芽湾から侵入し尾崎浦、和田浦、仁位浦を攻撃した。「応永の外寇」(糠岳戦争)である。

対馬の兵は寡兵ながらも反撃し糠岳付近でゲリラ戦を展開、戦況は膠着する。暴風雨も近づいたこともあり、宗貞盛が提示した和平案に朝鮮側が同意し、兵は巨済島へ撤退した。

なお、朝鮮王の太宗は出兵前に「対馬為島、隷於慶尚道之鶏林。本是我国之地、載在文籍(対馬の島たる、慶尚道の鶏林に隷う。本これ我が国の地、載せて文籍に在り)」と記録されている(『世宗実録』)。「対馬は朝鮮の領土で古い文献にもちゃんと書いてある」と言うのじゃ。

どこからそういうトンデモ認識が出てくるのかさっぱりわからんが、最近、竹島の領有権を日本が主張することに対抗して、韓国政界では対馬の領有権を主張しようという活動が大真面目に始まっているという。あるいは、現代もこれと大差ない認識なのじゃろう。なんともトホホではあるが、嘘も言い続ければ誠になるとも言われる。今後も注視せねばならぬな。

戦国時代〜宗氏と文禄・慶長の役

宗義智

宗義智

応永の外寇で朝鮮と日本の関係は悪化したが、対馬の宗氏は関係修復に努めた。それにより宗氏は室町幕府の守護・守護代として対馬国を治ながらも、朝鮮の被官としての立場をあわせもつ存在となり、日朝の交易利権を独占していく。

やがて世は応仁の乱を経て戦国時代に突入する。宗氏は凋落した主筋の少弐氏を助けるため、九州に度々兵を出している。しかし永禄2年(1559)、少弐氏は龍造寺隆信に攻められて滅亡。これにより宗氏は少弐氏からのくびきを逃れ、九州に進出することもなくなった。

やがて豊臣秀吉が九州征伐に乗り出してくると、当主の宗義調は嫡男・義智と共に秀吉の下へ参陣した。秀吉は宗氏の本領を安堵し、これで宗氏も安泰……のはずであったが、なんと秀吉は天下を平定した後に唐入りという途方もない野望を抱いていた。秀吉は朝鮮に明に攻め込むための先導役をさせると言い出し、宗氏にその交渉をするように命じた。

さすがにこれは無理難題である。窮した宗義智は事を穏便に済ませようと、朝鮮に秀吉の天下統一への祝賀する使節を送るよう促し、秀吉には朝鮮から服属使が来たと嘘をついて謁見の場をセットした。じゃが、こんな茶番がうまくいくはずはなく、秀吉も朝鮮も大激怒。

義智は朝鮮に明征服の先導ではなく、ただ明への道を貸すだけと偽って再交渉するも、そんなことを納得するはずもない。かくして秀吉いよる朝鮮出兵が発動されたのじゃ。

清水山城

清水山城があった清水山(Wikipedia)

文禄・慶長の役にあたり、対馬には兵站として清水山城がつくられた。そして宗義智は小西行長の軍に従って釜山城を攻めている。

戦争の詳細は省くが、慶長3年(1598)、秀吉が死去すると朝鮮に派遣されていた日本軍に帰国命令が発せらる。これにて前後7年に及ぶ朝鮮出兵は終了した。

その後の関ヶ原の合戦で、宗義智は西軍に与して伏見城を攻めた。宗義智の正室は西軍主力の小西行長の娘じゃからな。じゃが、結果はご存知の通り。本来であれば宗氏はお取り潰しになってもおかしくないはずだった。じゃが、徳川家康は悪化した朝鮮との国交修復を迅速に進めることを望んでおり、義智の罪を問わず本領を安堵した。かくして宗氏は徳川時代の朝鮮外交の窓口として活躍していくことになる。まさに「芸は人を助ける」の典型じゃな。

近世・近現代の対馬

江戸時代〜朝鮮通信使と国書偽造

対馬朝鮮通信使歴史館

対馬朝鮮通信使歴史館

慶長9年(1604)、宗氏の骨折りにより、朝鮮から使者が徳川家康と秀忠と会見することになった。幕府は速やかな修好回復を希望し、朝鮮側も荒廃した国土の復興、女真族の南下への懸念から態度を軟化させたのじゃ。

しかし、これでめでたしめでたし、一件落着とはならなかった。じつはこのとき、対馬藩は交渉をうまく進めるため国書の偽造を行っていたのじゃ。

詳細は省くが要するに朝鮮は国書は「徳川が先に出せ!」と言っていたのじゃ。国書を先に出すということは恭順を意味し、家康が承諾するかわからない。おまけにこの時期は秀頼が存命なので、「家康じゃなくて秀頼名で出せ!」とすら言われかねない。

そこで対馬藩はこっそり国書を偽造して朝鮮に出してしまう。しかも、辻褄合わせのために、その後のやり取りではその都度、両者の国書の偽造と改ざんを余儀なくされたのじゃ。

そして、これが内部告発でバレた。対馬藩家老の柳川調興が藩主・宗義成と不仲となり、国書偽造を幕府に明かしてしまったのじゃ。宗氏最大のピンチであった。

この裁定は将軍家光に委ねられた。最終的に対馬藩主・宗義成は譴責のみ、密告した柳川は津軽へ流罪という処置が言い渡された。ここで宗氏の罪を問えば、朝鮮との関係は悪化するし、柳川の行為は武士道に悖るということじゃろう。

これにより対馬藩は「朝鮮通信使」を迎える窓口としての役割を担い続け、朝鮮貿易における藩の立場は守られたというわけじゃ。これまた「芸は人を助ける」ということじゃな。

元禄2年(1689)、対馬藩は儒学者の雨森芳洲を朝鮮方佐役として採用した。芳洲は対馬藩の外交方針として「誠信の交隣」を提唱、「互いに欺かず、争わず、真実をもっての交わり」と方針を説き、朝鮮との友好親善につとめた。

こうした対馬藩の努力により、朝鮮通信使は対馬から壱岐へと渡り、江戸へ向かう華やかなその行列は、沿道の民衆の喝采を集めることになったのじゃよ。

宗家累代の菩提寺・万松院

宗家累代の菩提寺・万松院

万松院は、元和元年(1615)に宗家20代義成が父・義智の冥福を祈って創建した寺。以降、宗家累代の菩提寺となった。

その後数度の火災により焼失したため今の本堂は明治になって建て替えられたものである。堂内には朝鮮国王から贈られた三具足、徳川将軍の大位牌が並んでいる。

石段を上った場所には、宗家一族の墓所である御霊屋があり、荘厳な雰囲気のなか墓所が立ち並んでいる。その規模は大大名なみの規模で、金沢市の前田藩墓地、萩市の毛利藩墓地とともに日本3大墓地の一つともいわれているぞ。

宗家は鎌倉以来の名家。中国朝鮮と日本の外交交易の最前線の役割を果たしてきた由緒ある家柄じゃ。断絶しなかっただけでもすごいが、宗家が果たして来た役割に思いを致せば、これはもい驚歎するばかりである。

幕末・明治〜列強の進出と対馬沖海戦

日露平和友好の丘・殿崎

日露平和友好の丘・殿崎

黒船来航による幕末の風雲は対馬藩にも襲いかかった。文久元年(1861)、ロシアの軍艦ポサドニック号が浅芽湾に侵攻、強引に芋崎を占拠して土地の貸与を求めてきたのじゃ。対馬藩は対応に苦慮したが、幕府外国奉行の小栗忠順の尽力、イギリスの圧力でロシア軍艦を退去させることはできた。

じゃが、これ以後、対馬藩でも他藩と同様、勤皇派と佐幕派の対立が発生する。勝井騒動(甲子の変)では、対馬藩全体で200名以上が粛清されるという大事件が起きている。

最終的に対馬藩は新政府側につき、戊辰戦争では藩兵を大坂まで進めている。そして御一新後は版籍奉還をおこない、廃藩置県により厳原県、伊万里県(後の佐賀県)、三潴県、長崎県に編入される。最後の藩主・宗義達は伯爵を授けられた。

明治日本は南下してくるロシアを仮想敵国とし、対馬はまたも国防の最前線の島として位置付けられて行く。日清戦争後の三国干渉により、日本とロシアの戦争は避けられない状況となると、対馬は浅茅湾を中心に要塞化が進められていく(対馬要塞)。

そして日露戦争の日本海海戦では、東郷平八郎率いる連合艦隊はロシアのバルチック艦隊を破り、勝利を決定づける。ちなみに対馬沖を主戦場としたこの海戦は、日本以外の国では「Battle of Tsushima」(対馬海戦)と呼ばれているぞ。

日本海海戦、ロシア兵上陸の地

日本海海戦、ロシア兵上陸の地

上対馬の殿崎には、対馬沖で繰り広げられた日本海海戦を記念した「日露友好の丘」がある。撃沈されたバルチック艦隊のウラジミル・モノマフ号の水兵143名が流れ着いた場所である。戦況を見守りながら農作業をしていた農婦は敗残の水兵達を手厚くもてなしたという。

記念碑の題字の「恩海義喬(めぐみのうみ、ぎはたかし)」は、この話を聞いたき東郷平八郎の書によるもの。「死の海となった対馬の海が恩愛の海となった。対馬の人たちの義は気高い」という意味じゃ。

わしが訪れたときは時節柄、ロシアの国旗が下ろされてポールに縛り付けられていた。ここにロシアの国旗が再び翻るのはいつのことになるのじゃろうか。

対馬の海を眺めながら、早く平和が訪れることを切に祈ってきたぞ。

おまけ:ツシマヤマネコのこと

ツシマヤマネコ飛び出し注意の看板

ということで対馬の旅の備忘録をかねて、対馬の歴史をまとめてみたが、いかがであったじゃろうか。

対馬はとにかく奥が深い! 古代から現代まで、歴史の宝庫である。

しかも、かなりでかい! 壱岐のような調子で移動を考えていると痛い目に遭うぞ。

実際、南北をクルマで縦走すると東京小田原間くらいの距離があって閉口した。今回、わしもそれほど時間の余裕がなく、見逃したり回りきれなかったスポットがたくさんあり、また行かねばと思っておる。

再訪せねばならぬもう一つの理由はツシマヤマネコじゃ。レンタカーで移動しているとヤマネコ飛び出し注意を換気する道路標識が随所にある。今回の旅では、ツシマイエネコは見かけたがツシマヤマネコと遭遇することはなかったので、次回は野生動物センターにも立ち寄りたいと思っておる。

もっとも、ツシマヤマネコは横浜のズーラシアにもいるらしいけどな。

以上、とりあえず旅の備忘録として。国境の島としての空気を存分に味わいながら歴ヲタ活動ができる対馬は、機会があればぜひ訪れてほしいものじゃな。