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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

平景隆のこと〜文永の役で蒙古と戦い、討死した壱岐の守護代

平景隆は壱岐国の守護代。少弐氏の家人であり、文永の役では壱岐に来襲した蒙古軍と戦い、壮烈な戦士を遂げている。今日はその戦いについて、書き留めておくぞ。いわゆるレイクイエムというやつじゃ。

文永の役 新城古戦場跡碑(長崎県壱岐市勝本町)

文永の役 新城古戦場跡碑(長崎県壱岐市勝本町)

なお、わしが壱岐対馬に行ったときの旅日記はこちらに書いたから、時間があれば読んでおくれ。

平景隆、百余騎で出陣し蒙古相手に奮戦

『八幡愚童訓』によれば、文永11年(1274)10月14日申の刻(午後4時から6時頃)、蒙古軍は壱岐の勝本と天ヶ原に上陸してきた。その数は元軍2万5千、高麗軍8千、船団は900艘という大軍じゃ(文永の役)。

島民を殺戮しながら侵攻してくる蒙古軍に、平景隆はわずか百余騎で出陣し、庄ノ三郎ヶ城の前の唐人原でにてこれを迎えうった。矢の応酬を手始めに、景隆軍は果敢に蒙古に立ち向かったが、圧倒的は兵力差では如何ともしがたく、景隆軍は樋詰城へ撤退する。

日没とともに蒙古軍は船団に引き上げたが、翌日には景隆が篭る樋詰城を攻撃してきた。景隆はここで最後の決戦を試みたが、奮戦虚しく城中で自害する。

平景隆を祀る新城神社

元寇忠国供養塔(千人塚、長崎県壱岐市勝本町)

元寇忠国供養塔(千人塚、長崎県壱岐市勝本町)

蒙古軍は殺戮の限りを尽くした。赤子は股から引き裂かれ、男性は耳や鼻を削ぎ落として惨殺、女性は掌に穴を開け綱を通して引きずり回したと記されている。蒙古が去った後の島には死体が山のように積み重なり、生き残った人々は亡骸を集めて埋葬したという。壱岐にはこうした「千人塚」が至る所にある。 

新城古戦場は、景隆らが籠城した樋詰城の近くにあるが、その一角にも供養塔がある。今はのどかな風景が広がる場所じゃが、このあたりでも多くの島民や兵たちが惨殺されたのじゃろう。

平景隆の居城であった樋詰城跡には、現在、景隆を祭神とする「新城神社」が建てられている。これは明治維新後、全国的に忠臣の顕彰運動が高まり、建立されたものじゃ。明治29年(1896)、平景隆には正四位が追贈された、本殿の前には景隆の墓標もあるぞ。

新城神社(長崎県壱岐市勝本町)

新城神社(長崎県壱岐市勝本町)

平景隆公墓所(新城神社境内)

新城神社境内にある平景隆墓所

『アンゴルモア』では大蔵太子の弟・種資も参戦

なお、樋詰城の決戦の前に、平景隆の姫御前は家来の宗三郎と共に太宰府へこの顛末を報せるべく城を逃れた。じゃが、逃走中に蒙古の毒矢に当たり命を落としている。宗三郎はその後、博多に渡り、この惨状を報告しているが、蒙古がてつはうや毒矢を使用するという情報は、いささかの役に立ったことじゃろう。

新城神社(長崎県壱岐市勝本町)

新城神社(長崎県壱岐市勝本町)

ところで、蒙古襲来を描く「アンゴルモア 元寇合戦記」では、これをベースにしたような逸話が描かれている。この物語には大蔵太子という素肌に胴丸を着込んだ女武者が登場するが、この太子は実在の人物である。

大蔵太子(天草太子、播磨局)は肥後の御家人で天草太夫を称し、女性ながら大蔵氏惣領となり、水軍を率いて蒙古軍と戦ったといわれる人物じゃ。

太子は船で天草から博多に向かう途中、弟の種資の消息を訪ねて壱岐に立ち寄る。そこで主人公の朽井迅三郎や景隆の娘・ゴジョウと出会う。

太子の弟の大蔵(天草)種資は、なぜか天草を出奔し、壱岐で暮らしていた。そして、壱岐を「わが一所懸命の地でござる!」と、平景隆とともに壱岐牛にまたがり、蒙古軍と戦っている。じゃが、種資は景隆の命で城に残された女性や子どもを守って落ち延びる途中に命を落としてしまう。

天草種資 たかぎ七彦『アンゴルモア元寇合戦記』(集英社)

天草種資 たかぎ七彦『アンゴルモア元寇合戦記』(角川コミックス)

このことをゴジョウから聞かされた太子は、種資が大した縁も無い壱岐で一所を守って死んだことを嘆く。そして、やはり対馬で命を張った迅三郎に、その意味を問いただすシーンがある。

「縁も家も戦場を共にすれば生まれるさ。同じ血を浴び、同じ死を看取り、共に怯え、背をかばい合ううちに、知らぬまに互いが互いの命懸けの一所となる」

このお話はもちろんフィクションじゃろうが、種資もまた実在の人物じゃ。Wiki先生によると、種資ははじめ河内浦領が与えられ、後に実施が播磨局の養子となり、天草氏の惣領を相続したとある。

大蔵氏は、もともと「天下無双の弓馬の達者」と賞された大蔵種材が藤原隆家とともに刀伊の入寇で武功をあげ、壱岐守に叙任されているから、種資が壱岐にいて、景隆とともに戦うというのもありなような気はするけどな。

鎌倉武士の一所懸命

壱岐

「一所懸命」は鎌倉武士の本分である。自らの土地を守り、民を守ることに武士たちは命をかけた。平景隆もまた然りである。そんな武士たちに報いることこそ、北条の、鎌倉幕府の役目なんじゃが……

二度にわたる元寇は日の本を守る戦いであった。未曾有の国難に武士たちは一所懸命に戦い、蒙古を撃退した。じゃが、この戦で幕府は御家人たちに恩賞を与えることができなかった。それはそうじゃろう。この戦は防衛戦争であり、敵から土地をぶんどったわけではないからな。

誠に申し訳ないが、これはもう致し方ないことなんじゃ。竹崎季長あたりは絵巻ものまで作って強談判して来たけど、ない袖は振れぬのじゃ。

すまぬが、許せ。