鎌倉・室町
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ちょっと間が空いてしまったが、霊山城に登ってきたときのこと。霊山はご存知のとおり、南北朝時代に北畠顕家が義良親王を奉じて陸奥国府を置き、奥州における南朝の一大拠点となったところじゃよ。
今回は久しぶりに「太平記」関連じゃ。ユアスタ遠征の帰路、福島県は霊山町にある霊山神社に行ってきた。霊山神社の御祭神は、後藤久美子さんが演じた南北朝の美少年、花将軍こと北畠顕家じゃよ。
鳥栖に遠征の途中、近くに九州南北朝関係の史跡・大保原(大原)合戦場の跡があることを知り、急遽立ち寄ってみた。場所は西鉄小郡駅の下車、市役所のすぐ隣じゃ。 大保原古戦場跡(福岡県小郡市)
博多湾の元寇防塁。蒙古襲来に備えて鎌倉幕府がつくった石築地(いしついじ)をみてきた。ちなみに、「元寇」という言葉は水戸光圀の時代から使われはじめたものなので、最近の教科書では「蒙古襲来」という言葉に置き換えられているらしい。これ豆な。
令和元年の初詣は、材木座の由井若宮へ。平安時代、河内源氏の源頼義公がが前九年の役で東北に赴くにあたり、石清水八幡宮を勧請した。これを源頼朝公が北山へ移したのが現在の鶴岡八幡宮じゃ。元八幡と呼ばれる所以じゃな。なお、このあたりには芥川龍之介…
町田にある東京都指定の旧跡・井出の沢古戦場に行ってきた。中先代の乱で、北条時行軍と足利直義軍との間で、激しい合戦が繰り広げられたと伝えらるところじゃよ。
秦野に源実朝公御首塚を訪ねてきたときのいわば「こぼれコラム」ということで、この地を治めていた波多野氏についてじゃ。
所用があって秦野に出向いたついでに、源実朝公の御首塚がこの辺りにあったことを思い出して立ち寄ってきた。今日1月27日は(旧暦で)実朝公のご命日じゃ。
今さらだが、磐田遠征の往路、小夜の中山に立ち寄ったときのことをアップしておく。小夜の中山は箱根、鈴鹿と並ぶ旧東海道の三大難所の一つといわれた峠で、中先代の乱の合戦場でもある。
福島県白河市の関川寺。ここに南朝の忠臣・結城宗広の墓所があった。関川寺は白河結城家の菩提寺で、開基は宗広と伝えられている。かつてここは結城氏の館だったと考えられており、鎌倉後期の土塁や堀が遺されている。
朝日新聞デジタルに、足利尊氏の顔、これで決まり? 中世肖像画の写し発見というニュース。専門家は「尊氏の顔がこれではっきりした」と話しているという。
一年に一度やってくる「鎌倉の一番長い日」。今日、5月22日は新田義貞の鎌倉攻めにより、北条一族が自刃、鎌倉幕府が滅亡した日。正慶2年、西暦でいうと1333年のことじゃよ。
呉座勇一氏の中公新書を読んだのをきっかけに、応仁の乱について備忘録的に書いていくシリーズ。今日は将軍・足利義政についてじゃよ。
呉座勇一氏の中公新書を読んだのをきっかけに、応仁の乱について備忘録的に書いていくシリーズ。ペースがだいぶ遅いけど、今日は両大将・細川勝元と山名宗全についてじゃよ。
呉座勇一さんの中公新書を読んだのをきっかけに、応仁の乱について備忘録的に書いていくシリーズ。まずは乱の直接的なきっかけになった畠山氏のお家騒動についてじゃ。ちなみに写真は今年の正月に行った上御霊神社。文正2年(1467)1月18日、ここ御霊の森に…
南北朝時代を舞台にしたホラー小説『髑髏皇帝』(田中文雄著、講談社)が電子化されていたのでキンドルで購入し、先ほど読了。最初はふつうの時代小説、歴史小説風じゃったが、途中から一転して怨霊どもが跋扈する展開に。なんかもう勢いで読了してしまった…
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昨年末あたりから、中公新書の『応仁の乱』(呉座勇一著)が売れてるらしい。「なんで今、応仁の乱?」と思わんでもないが、とにかく売れているらしいので、わしも読んでみたのじゃが……かなり厄介な代物じゃったぞ。
久しぶりに南北朝、太平記ネタを投下。井伊谷に行ってきたばかりなんで、もちろん今回は宗良親王のことじゃ。こちら、宗良親王を奉じて井伊氏が足利軍と戦った三岳城。こちらはさすがに詰めの城。平時の居館代わりの井伊谷城とは違って、登りきるのは一苦労…
統合型リゾート(IR)を推進する「カジノ法案」が成立した。もともわしはギャンブルの類はあまり好きではない。競馬競輪はぜんぜんやらんし、パチンコや麻雀も10年以上やってない。宝くじも年末ジャンボくらいで、totoも面倒臭くて買わない。じゃから、カジ…
昨日、得意先の安藤さんという人が青森出身だったので、津軽の安藤氏(安東氏)と関係があるのか聞いてみたところ、まったく関係なかったw じゃが、話としては大いに盛り上がったんで、今日は津軽安藤氏についてじゃよ。
さて、今回はアニメ「ドリフターズ」で注目の那須与一。島津豊久、織田信長とともに異世界で大活躍する与一は史実のうえでも謎多き武者。というより『吾妻鏡』『玉葉』『愚管抄』など、同時代の史料に登場してこないため、実在したかどうかすら疑わしいんじ…
佐渡への旅の話、続く。先日はこの旅の目的のひとつ、日野資朝(と阿新丸)の墓参について書いたが、本日は順徳院のご生涯についてじゃよ。
さて、この夏に訪れた佐渡の話。じつは今回の佐渡行きの目的のひとつは、わしが斬首に処した日野資朝の墓前に手を合わせることじゃった。
佐渡の両津港のほど近く、金色に輝く巨大な日蓮の銅像があった。ということで、今日は日蓮と過酷な流刑生活を支えた阿仏房と千日尼についてじゃ。
今日は6月5日。今から769年前の宝治元年(1247年)6月5日、鎌倉で執権北条氏と有力御家人の三浦氏との間に武力衝突が起こった。宝治合戦じゃ。敗れた三浦泰村、光村らは法華堂にこもり一族与党500人が自決。これにより北条得宗家による専制政治が、いよいよ…
今年も「5月22日」がやってくるにあたり、鎌倉のために戦い、命を落とした者どもへの鎮魂の記事でも書こうかと思うておる。今回は本間山城左衛門と大仏(北条)貞直のことじゃ。
ゴールデンウィークで混雑する鎌倉を避けて、野暮用をこなしに逗子に行ってきた。東逗子ともいえる沼間あたりは、むかしは鎌倉七郷のひとつで、沼浜郷と呼ばれていた。 沼浜という地名は文献的には正倉院の時代からみられるようで、かつてはすぐ近くまで海岸…
今日4月30日は九郎判官殿こと源義経殿の命日じゃ。数年前の夏、わしも平泉を旅して、九郎殿最期の地といわれる衣川館跡を訪れ、手を合わせてきた。「夏草や兵どもの夢の跡」……高館義経堂とよばれるお堂がひっそりとあって、もののふのあわれを感じたもの…